P--295 '観経疏C.txt P--296 P--297 #1観経四帖疏 #2玄義分    観経玄義分 巻第一                            沙門善導集記 【1】  先づ大衆を勧めて願を発して三宝に帰せしむ。   道俗の時衆等、おのおの無上心を発せ。   生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。   ともに金剛の志を発して、横に四流を超断すべし。   弥陀界に入らんと願じて、帰依し合掌し礼したてまつれ。   世尊、われ一心に尽十方の   法性真如海と、報化等の諸仏と、   一々の菩薩身と、眷属等の無量なると、   荘厳および変化と、十地と三賢海と、   時劫の満と未満と、智行の円と未円と、   正使の尽と未尽と、習気の亡と未亡と、 P--298   功用と無功用と、証智と未証智と、   妙覚および等覚の、まさしく金剛心を受け、   相応する一念の後、果徳涅槃のものに帰命したてまつる。   われらことごとく三仏菩提の尊に帰命したてまつる。   無礙の神通力をもつて、冥に加して願はくは摂受したまへ。   われらことごとく三乗等の賢聖の、仏の大悲心を学して、   長時に退することなきものに帰命したてまつる。   請ひ願はくははるかに加備したまへ。念々に諸仏を見たてまつらん。   われら愚痴の身、曠劫よりこのかた流転して、   いま釈迦仏の末法の遺跡たる   弥陀の本誓願、極楽の要門に逢へり。   定散等しく回向して、すみやかに無生の身を証せん。   われ菩薩蔵頓教、一乗海によりて、   偈を説きて三宝に帰して、仏心と相応せん。   十方恒沙の仏、六通をもつてわれを照知したまへ。 P--299   いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の教に乗じて、広く浄土の門を開く。   願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、   同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。 【2】 この『観経』一部のうちに、先づ七門を作りて料簡し、しかして後に文 によりて義を釈せん。第一に先づ序題を標す。第二に次にその名を釈す。第三 に文によりて義を釈し、ならびに宗旨の不同、教の大小を弁ず。第四にまさし く説人の差別を顕す。第五に定散二善、通別に異なることあることを料簡す。 第六に経論の相違を和会するに、広く問答を施して疑情を釈去す。第七に韋提 の、仏の正説を聞きて益を得る分斉を料簡す。 【3】 第一に先づ序題を標すとは、ひそかにおもんみれば、真如広大にして五 乗もその辺を測らず。法性深高にして十聖もその際を窮むることなし。真如の 体量、量性、蠢々の心を出でず。法性無辺なり。辺体すなはちもとよりこ のかた動ぜず。無塵の法界は凡聖斉しく円かに、両垢の如々すなはちあまねく 含識を該ね、恒沙の功徳寂用湛然なり。ただ垢障覆ふこと深きをもつて、浄 体顕照するに由なし。ゆゑに〔釈尊は〕大悲をもつて西化を隠し、驚きて火宅 P--300 の門に入り、甘露を灑ぎて群萌を潤し、智炬を輝かせばすなはち重昏を永夜よ り朗らかならしむ。三檀等しく備はり、四摂をもつて斉しく収めて、長劫の苦 因を開示し、永生の楽果に悟入せしむ。 【4】 群迷の性の隔たり、楽欲の不同をいはず。一実の機なしといへども、等 しく五乗の用あれば、慈雲を三界に布き、法雨を大悲より注がしむることを致 す。等しく塵労を洽すに、あまねく未聞の益を沾さざるはなし。菩提の種子こ れによりてもつて心を抽き、正覚の芽念々にこれによりて増長す。心によりて 勝行を起すに、門八万四千に余れり。漸頓すなはちおのおの所宜に称ふをも つて、縁に随ふもの、すなはちみな解脱を蒙る。 【5】 しかるに衆生障重くして、悟を取るもの明めがたし。教益多門なるべし といへども、凡惑遍攬するに由なし。たまたま韋提、請を致して、「われいま 安楽に往生せんと楽欲す。ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われ に正受を教へたまへ」といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請に よるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の 弘願を顕彰したまふ。その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 P--301 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃 してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。弘願といふは『大経』 (上・意)に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、 みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。また仏の密意 弘深なり、教門暁めがたし。三賢・十聖も測りて&M041467;ふところにあらず。いは んやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや。仰ぎておもんみれば、釈迦 はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。かしこに喚ば ひここに遣はす、あに去かざるべけんや。ただ勤心に法を奉けて、畢命を期と なして、この穢身を捨ててすなはちかの法性の常楽を証すべし。これすなはち 略して序題を標しをはりぬ。 【6】 第二に次に名を釈すとは、『経』に「仏説無量寿観経一巻」とのたまへ り。「仏」といふはすなはちこれ西国(印度)の正音なり。この土(中国)には 「覚」と名づく。自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす。「自覚」 といふは凡夫に簡異す。これ声聞は狭劣にして、ただよく自利のみありて、闕 けて利他の大悲なきによるがゆゑなり。「覚他」といふは二乗に簡異す。これ P--302 菩薩は智あるがゆゑによく自利し、悲あるがゆゑによく利他し、つねによく悲 智双行して有無に着せざるによる。「覚行窮満」といふは菩薩に簡異す。これ 如来は智行すでに窮まり、時劫すでに満ちて、三位を出過せるによるがゆゑに、 名づけて仏となす。「説」といふは口音に陳唱す。ゆゑに名づけて説となす。 また如来、機に対して法を説きたまふこと多種不同なり。漸頓よろしきに随ひ、 隠彰異なることあり。あるいは六根通じて説きたまふ。相好もまたしかなり。 念に応じ、縁に随ひてみな証益を蒙る。 【7】 「無量寿」といふは、すなはちこれこの地(中国)の漢音なり。「南無阿 弥陀仏」といふは、またこれ西国(印度)の正音なり。また「南」はこれ帰、 「無」はこれ命、「阿」はこれ無、「弥」はこれ量、「陀」はこれ寿、「仏」 はこれ覚なり。ゆゑに「帰命無量寿覚」といふ。これすなはち梵漢相対するに、 その義かくのごとし。いま「無量寿」といふはこれ法、「覚」とはこれ人なり。 人法並べ彰す、ゆゑに阿弥陀仏と名づく。 【8】 また人法といふはこれ所観の境なり。すなはちその二あり。一には依報、 二には正報なり。依報のなかにつきてすなはちその三あり。一には地下の荘厳、 P--303 すなはち一切の宝幢光明のたがひにあひ映発する等これなり。二には地上の荘 厳、すなはち一切の宝地・池林・宝楼・宮閣等これなり。三には虚空の荘厳、 すなはち一切の変化の宝宮・華網・宝雲・化鳥・風光の動発せる声楽等これな り。前のごとく三種の差別ありといへども、みなこれ弥陀浄国の無漏真実の勝 相なり。これすなはち総じて依報の荘厳を結成す。また依報といふは、日観よ り下華座観に至るこのかたは、総じて依報を明かす。この依報のなかにつきて すなはち通あり別あり。別といふは、華座の一観はこれその別依なり、ただ弥 陀仏に属す。余の上の六観はこれその通依なり、すなはち法界の凡聖に属す。 ただ生ずることを得れば、ともに同じく受用す。ゆゑに通といふ。またこの六 のなかにつきてすなはち真あり仮あり。仮といふはすなはち日想・水想・氷想 等、これその仮依なり。これこの界中の相似可見の境相なるによるがゆゑなり。 真依といふは、すなはち瑠璃地より下宝楼観に至るこのかたは、これその真依 なり。これかの国の真実無漏の可見の境相なるによるがゆゑなり。二には正報 のなかにつきてまたその二あり。一には主荘厳、すなはち阿弥陀仏これなり。 二には聖衆荘厳、すなはち現にかしこにある衆および十方法界同生のものこ P--304 れなり。またこの正報のなかにつきてまた通あり別あり。別といふはすなはち 阿弥陀仏これなり。すなはちこの別のなかにまた真あり仮あり。仮正報といふ はすなはち第八の像観これなり。観音・勢至等もまたかくのごとし。これ衆生 障重く染惑処深きによりて、仏(釈尊)、たちまちに真容を想はんに、顕現す るに由なきことを恐れたまふがゆゑに、真像を仮立してもつて心想を住めしめ、 かの仏に同じてもつて境を証せしめたまふ。ゆゑに仮正報といふ。真正報とい ふはすなはち第九の真身観これなり。これ前の仮正によりて、やうやくもつて 乱想を息めて、心眼開くることを得て、ほぼかの方の清浄二報、種々の荘厳 を見て、もつて昏惑を除く。障を除くによるがゆゑに、かの真実の境相を見る ことを得。通正報といふはすなはち観音聖衆等以下これなり。向よりこのかた いふところの通別・真仮は、まさしく依正二報を明かす。 【9】 「観」といふは照なり。つねに浄信心の手をもつて、もつて智慧の輝を 持ち、かの弥陀の正依等の事を照らす。「経」といふは経なり。経よく緯を持 ちて疋丈を成ずることを得て、その丈用あり。経よく法を持ちて理事相応し、 定散機に随ひて義零落せず。よく修趣のものをして、かならず教行の縁因に P--305 よりて、願に乗じて往生してかの無為の法楽を証せしむ。すでにかの国に生じ ぬれば、さらに畏るるところなし。長時に行を起して、果、菩提を極む。法身 常住なること、たとへば虚空のごとし。よくこの益を招く。ゆゑにいひて経 となす。「一巻」といふは、この『観経』一部は両会の正説なりといふといへ ども、総じてこの一を成ず。ゆゑに一巻と名づく。ゆゑに「仏説無量寿観経 一巻」といふ。これすなはちその名義を釈しをはりぬ。 【10】 三に宗旨の不同、教の大小を弁釈すとは、『維摩経』のごときは不思議 解脱をもつて宗となし、『大品経』のごときは空慧をもつて宗となす。この例 一にあらず。いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念 仏三昧をもつて宗となす。一心に回願して浄土に往生するを体となす。 【11】 教の大小といふは、問ひていはく、この『経』は二蔵のなかにはいづれ の蔵の摂なる。二教のなかにはいづれの教の収なる。答へていはく、いまこの 『観経』は菩薩蔵の収なり。頓教の摂なり。 【12】 四に説人の差別を弁ずとは、おほよそ諸経の起説五種を過ぎず。一には 仏の説、二には聖弟子の説、三には天仙の説、四には鬼神の説、五には変化の P--306 説なり。いまこの『観経』はこれ仏の自説なり。  問ひていはく、仏いづれの処にかましまして説き、何人のためにか説きたま へる。答へていはく、仏王宮にましまして、韋提等のために説きたまへり。 【13】 五に定散両門を料簡するにすなはちその六あり。一には能請のひとを 明かす、すなはちこれ韋提なり。二には所請のひとを明かす、すなはちこれ世 尊なり。三には能説のひとを明かす、すなはちこれ如来なり。四には所説を明 かす、すなはちこれ定散二善十六観門なり。五には能為を明かす、すなはちこ れ如来なり。六には所為を明かす、すなはち韋提等これなり。 【14】 問ひていはく、定散二善はたれの致請による。答へていはく、定善の一 門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。  問ひていはく、いぶかし、定散二善は出でていづれの文にかある。いますで に教備はりて虚しからず、いづれの機か受くることを得る。答へていはく、解 するに二義あり。一には謗法と無信と、八難および非人、これらは受けず。こ れすなはち朽林・碩石、生潤の期あるべからず。これらの衆生はかならず受化 の義なし。これを除きて以外は、一心に信楽して往生を求願すれば、上一形を P--307 尽し下十念を収む。仏の願力に乗じてみな往かざるはなし。これすなはち上の いづれの機か受くることを得るの義を答へをはりぬ。二には出でていづれの文 にかあるとはすなはち通あり別あり。「通」といふはすなはち三義の不同あり。 なんとなれば、一には「韋提白仏唯願為我広説無憂悩処」よりは、すなはちこ れ韋提、心を標してみづからために通じて所求を請ふ。二には「唯願仏日教我 観於清浄業処」よりは、すなはちこれ韋提みづからために通じて去行を請ふ。 三には「世尊光台現国」よりは、すなはちこれ前の通請の「為我広説」の言に 酬ゆ。三義の不同ありといへども、前の通を答へをはりぬ。「別」といふはす なはち二義あり。一には「韋提白仏我今楽生極楽世界弥陀仏所」よりは、す なはちこれ韋提みづからために別して所求を選ぶ。二には「唯願教我思惟教我 正受」よりは、すなはちこれ韋提みづからために別行を修せんと請ふ。二義 の不同ありといへども、上の別を答へをはりぬ。  これより以下は、次に定散両門の義を答ふ。  問ひていはく、いかなるをか定善と名づけ、いかなるをか散善と名づくる。 答へていはく、日観より下十三観に至るこのかたを名づけて定善となし、三 P--308 福・九品を名づけて散善となす。  問ひていはく、定善のなかになんの差別かある、出でていづれの文にかある。 答へていはく、いづれの文にか出づるといふは、『経』(観経)に「教我思惟教 我正受」とのたまへり、すなはちこれその文なり。差別といふはすなはち二義 あり。一にはいはく思惟、二にはいはく正受なり。「思惟」といふはすなはち これ観の前方便なり。かの国の依正二報総別の相を思想す。すなはち地観の文 (観経)のなかに説きて、「かくのごとく想ふものを名づけてほぼ極楽国土を見 るとなす」とのたまへり。すなはち上の「教我思惟」の一句に合す。「正受」 といふは、想心すべて息み、縁慮並び亡じて、三昧相応するを名づけて正受と なす。すなはち地観の文のなかに説きて、「もし三昧を得れば、かの国地を見 ること了々分明なり」とのたまへり。すなはち上の「教我正受」の一句に合 す。定散に二義の不同ありといへども、総じて上の問を答へをはりぬ。 【15】 また向よりこのかたの解は諸師と不同なり。諸師は思惟の一句をもつて、 もつて三福・九品に合して、もつて散善となし、正受の一句、もつて通じて十 六観に合して、もつて定善となす。かくのごとき解はまさに謂ふにしからず。 P--309 なんとなれば、『華厳経』(意)に、「思惟正受とはただこれ三昧の異名なり」 と説きたまふがごときは、この地観の文と同じ。この文をもつて証す、あに散 善に通ずることを得んや。また向よりこのかた、韋提上には請ひて、ただ「教 我観於清浄業処」といひ、次下にはまた請ひて「教我思惟正受」といへり。 二請ありといへども、ただこれ定善なり。また散善の文はすべて請へる処なし。 ただこれ仏の自開なり。次下の散善縁のなかに説きて、「亦令未来世一切凡夫」 といへる以下はすなはちこれその文なり。 【16】 六に経論の相違を和会するに、広く問答を施して疑情を釈去すとは、こ の門のなかにつきてすなはちその六あり。一には先づもろもろの法師につきて 九品の義を解す。二にはすなはち道理をもつて来してこれを破す。三にはかさ ねて九品を挙げて返対してこれを破す。四には文を出し来して、さだめて凡夫 のためにして聖人のためにせずといふことを証す。五には別時の意を会通す。 六には二乗種不生の義を会通す。 【17】 初めに諸師の解といふは、先づ上輩の三人を挙ぐ。上が上といふは、こ れ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり。なんがゆゑぞ知ることを得る。か P--310 しこに到りてすなはち無生忍を得るによるがゆゑなり。上が中とは、これ初地 より四地に至るこのかたの菩薩なり。なんがゆゑぞ知ることを得る。かしこに 到りて一小劫を経て無生忍を得るによるがゆゑなり。上が下とは、これ種性以 上より初地に至るこのかたの菩薩なり。なんがゆゑぞ知ることを得る。かしこ に到りて三小劫を経てはじめて初地に入るによるがゆゑなり。この三品の人は みなこれ大乗の聖人の生ずる位なり。次に中輩の三人を挙げば、諸師のいはく、 中が上とはこれ三果の人なり。なにをもつてか知ることを得る。かしこに到り てすなはち羅漢を得るによるがゆゑなり。中が中とはこれ内凡なり。なにをも つてか知ることを得る。かしこに到りて須陀&M017421;を得るによるがゆゑなり。中が 下とはこれ世善の凡夫にして、苦を厭ひて生ずることを求む。なにをもつてか 知ることを得る。かしこに到りて一小劫を経て羅漢果を得るによるがゆゑなり。 この三品はただこれ小乗の聖人等なり。下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫な り。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。ともに同じく一位にして往生を求 願すとは、いまだかならずしもしからず、知るべし。 【18】 第二にすなはち道理をもつて来し破すとは、上に「初地より七地に至る P--311 このかたの菩薩」といはば、『華厳経』(意)に説きたまふがごとく、「初地以 上七地以来は、すなはちこれ法性生身・変易生身なり。これらはかつて分段 の苦なし。その功用を論ずれば、すでに二大阿僧祇劫を経て、ならべて福・智 を修し、人法両ながら空ず、ならびにこれ不可思議なり。神通自在にして転変 無方なり。身は報土に居してつねに報仏の説法を聞き、十方を悲化して須臾に 遍満す」と。さらに何事を憂へてかすなはち韋提のそれがために仏に請ずるに よりて安楽国に生ずることを求めんや。この文をもつて証するに、諸師の所説 あに錯りにあらずや。上の二を答へをはりぬ。上が下とは、上に「種性より初 地に至るこのかた」といふは、いまだかならずしもしからず。経に説きたまふ がごとく、「これらの菩薩を名づけて不退となす。身は生死に居して、生死の ために染せられず。鵝鴨の水にあるに、水湿すことあたはざるがごとし」と。 『大品経』に説きたまふがごとし。「この位のなかの菩薩は、二種の真の善知 識の守護を得るによるがゆゑに不退なり。なんとなれば、一にはこれ十方の諸 仏、二にはこれ十方の諸大菩薩、つねに三業をもつてほかに加してもろもろの 善法において退失あることなし。ゆゑに不退の位と名づく。これらの菩薩もま P--312 たよく八相成道して衆生を教化す。その功行を論ずれば、すでに一大阿僧祇劫 を経て、ならべて福・智等を修す」と。すでにこの勝徳あり。さらに何事を憂 へてかすなはち韋提の請によりて生ずることを求めんや。この文をもつて証す。 ゆゑに知りぬ、諸師の所判還りて錯りとなる。これ上輩を責めをはりぬ。次に 中輩の三人を責めば、諸師のいはく、「中が上とはこれ三果のひとなり」と。 しかるにこれらの人は三塗永く絶え、四趣生ぜず。現在に罪業を造るといへど も、必定して来報を招かず。仏説きて、「この四果の人は、われと同じく解脱 の床に坐す」とのたまふがごとし。すでにこの功力あり。さらにまたなにを憂 へてかすなはち韋提の請によりて生路を求めんや。しかるに諸仏の大悲は苦あ るひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧め て浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひ とへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。この文をもつて 証す。ゆゑに知りぬ、諸師の所判の義、前の錯りに同じ。以下知るべし。 【19】 第三にかさねて九品を挙げて返対して破すとは、諸師のいふ、「上品上 生の人は、これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり」とならば、なんがゆ P--313 ゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「三種の衆生まさに往生を得べし。何者を か三となす。一にはただよく戒を持ち慈を修す。二には戒を持ち慈を修するこ とあたはざれども、ただよく大乗を読誦す。三には戒を持ち経を読むことあた はざれども、ただよく仏法僧等を念ず。この三人おのおのおのが業をもつて専 精に意を励まして、一日一夜、乃至七日七夜相続して断ぜず、おのおの所作の 業を回して往生を求願す。命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大 衆と光を放ち手を授けて、弾指のあひだのごとくにすなはちかの国に生ず」と。 この文をもつて証するに、まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上 品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し、なんぞ判じて上聖に同 ずることを得んや。しかるに四地より七地以来の菩薩は、その功用を論ずるに 不可思議なり。あに一日七日の善によりて、華台に授手迎接せられて往生せん や。これすなはち上が上を返対しをはりぬ。次に上が中を対せば、諸師のいふ、 「これ初地より四地以来の菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意) にのたまはく、「必ずしも大乗を受持せず」と。いかんが「不必」と名づくる。 あるいは読み読まず、ゆゑに不必と名づく。ただ善解といひていまだその行を P--314 論ぜず。またのたまはく(観経・意)、「深く因果を信じ大乗を謗らず、この善 根をもつて回して往生を願ず。命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩 薩大衆と一時に手を授けてすなはちかの国に生ず」と。この文をもつて証する に、またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして終時の迎 候に異なることあらしむることを致す。しかるに初地より四地以来の菩薩は、 その功用を論ずるに、『華厳経』に説きたまふがごとし。すなはちこれ不可思 議なり。あに韋提の請を致すによりて、まさに往生を得んや。上が中を返対し をはりぬ。次に上が下を対せば、諸師のいふ、「これ種性以上初地に至るこの かたの菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』にのたまはく、「亦因果 を信ず」と。いかんが「亦信」なる。あるいは信じ信ぜず、ゆゑに名づけて亦 となす。またのたまはく(同)、「大乗を謗らず、ただ無上道心を発す」と。 ただこの一句、もつて正業となす。さらに余善なし。「この一行を回して往生 を求願す。命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大衆と一時に手を 授けてすなはち往生を得」(同・意)と。この文をもつて証するに、ただこれ仏 世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして去時の迎 P--315 候に異なることあらしむることを致す。もしこの位のなかの菩薩の力勢を論ぜ ば、十方浄土に意に随ひて往生す。あに韋提それがために仏に請じて、勧めて 西方極楽国に生ぜしむるによらんや。上が下を返対しをはりぬ。すなはちこの 三品は去時に異なることあり。いかんが異なる。上が上の去時は、仏、無数の 化仏と一時に手を授く。上が中の去時は、仏、千の化仏と一時に手を授く。上 が下の去時は、仏、五百の化仏と一時に手を授く。ただこれ業に強弱ありて、 この差別あらしむることを致すのみ。次に中輩の三人を対せば、諸師のいふ、 「中が上とはこれ小乗の三果のひとなり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』 (意)にのたまはく、「もし衆生ありて、五戒・八戒を受持し、もろもろの戒 を修行して五逆を造らず、もろもろの過患なからんに、命終らんと欲する時、 阿弥陀仏、比丘聖衆と光を放ち法を説きて、来りてその前に現じたまふ。この 人見をはりてすなはち往生を得」と。この文をもつて証するに、またこれ仏世 を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。なんぞ小聖ならんや。中が中 といふは、諸師のいふ、「見道以前の内凡なり」とならば、なんがゆゑぞ、 『観経』(意)にのたまはく、「一日一夜の戒を受持して、回して往生を願ず。 P--316 命終らんと欲する時、仏を見たてまつりてすなはち往生を得」と。この文をも つて証するに、あにこれ内凡の人といふことを得んや。ただこれ仏世を去りた まひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひ て、回して往生を願ず。仏の願力をもつてすなはち生ずることを得。もし小 聖を論ぜば、去ることまた妨げなし。ただこの『観経』は、仏、凡のために説 きたまへり、聖のためにせず。中が下といふは、諸師のいふ、「小乗の内凡 以前の世俗の凡夫、ただ世福を修して出離を求む」とならば、なんがゆゑぞ、 『観経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行 ぜんに、命終らんと欲する時、善知識の、ためにかの仏の国土の楽事、四十八 願等を説くに遇ふ。この人聞きをはりてすなはちかの国に生ず」と。この文を もつて証するに、ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またい まだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむる に遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にあり て自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。次に下輩の三人を 対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の P--317 軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。階降を弁ちがたし」 とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二 種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。なにをもつてか知るこ とを得る。下が上の文に説くがごとし。「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の 諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあるこ となし。命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せ しむるに遇ひて一声す。その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの 人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」(観経・意)と。ただかくのごとき 悪人目に触るるにみなこれなり。もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。もし 善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。下が中とは、 「この人先に仏の戒を受く。受けをはりて持たずしてすなはち毀破す。また常 住僧物・現前僧物を偸み、不浄説法して、乃至、一念慚愧の心あることなし。 命終らんと欲する時、地獄の猛火一時にともに至りて、現じてその前にあり。 火を見る時に当りて、すなはち善知識の、ためにかの仏国土の功徳を説きて、 勧めて往生せしむるに遇ふ。この人聞きをはりてすなはち仏を見たてまつり、 P--318 化に随ひて往生す」(観経・意)と。初め善に遇はざれば獄火来迎し、後に善に 逢ふがゆゑに化仏来迎す。これすなはちみなこれ弥陀願力のゆゑなり。下が下 とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命 終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむ るに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」(同・意)と。 この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝 来迎す。またこの『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、総じてこ れ仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。ただ縁に遇ふに異なることあるを もつて、九品をして差別せしむることを致す。なんとなれば、上品の三人はこ れ大に遇へる凡夫、中品の三人はこれ小に遇へる凡夫、下品の三人はこれ悪に 遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願 力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。 なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。もしこの見をなさば、みづから 失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。いまもつて一々に文を出し顕証 P--319 して、いまの時の善悪の凡夫をして同じく九品に沾はしめんと欲す。信を生じ て疑なければ、仏の願力に乗じてことごとく生ずることを得。 【20】 第四に文を出して顕証すとは、問ひていはく、上来返対の義、いかんが 知ることを得る。「世尊さだめて凡夫のためにして聖人のためにせず」といふ は、いぶかし、ただ人情をもつて準へ義するや、はたまた聖教ありて来し証 するや。答へていはく、衆生は垢重くして智慧浅近なり。聖意は弘深なり。あ にいづくんぞみづからほしいままにせんや。いま一々にことごとく仏説を取り て、もつて明証となさん。この証のなかにつきてすなはちその十句あり。な んとなれば、第一には『観経』にのたまふがごとし。「仏、韋提に告げたまは く、〈われいまなんぢがために広くもろもろの譬へを説かん。また未来世の一 切凡夫の浄業を修せんと欲するものをして、西方極楽国土に生ずることを得し めん〉」とはこれその一の証なり。二には「如来いま未来世の一切衆生の煩悩 の賊のために害せらるるもののために清浄の業を説く」とのたまふは、これ その二の証なり。三には「如来いま韋提希および未来世の一切衆生を教へて西 方極楽世界を観ぜしめん」とのたまふは、これその三の証なり。四には「韋提、 P--320 仏にまうさく、〈われいま仏力によるがゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後の もろもろの衆生等は、濁悪不善にして五苦に逼められん、いかんがまさにかの 仏の国土を見たてまつるべき〉」とのたまふは、これその四の証なり。五には 日観の初めにのたまふがごとし。「仏、韋提に告げたまはく、〈なんぢおよび 衆生、念をもつぱらにせよ〉」といふより以下、すなはち「一切衆生生盲に あらざるよりは有目の徒日を見よ」といふに至るこのかたは、これその五の証 なり。六には地観のなかに説きてのたまふがごとし。「仏、阿難に告げたまは く、〈なんぢ、仏語を持ち、未来世の一切衆生の苦を脱れんと欲するもののた めに、この観地の法を説け〉」といふは、これその六の証なり。七には華座観 のなかに説きてのたまふがごとし。「韋提、仏にまうさく、〈われ仏力により て阿弥陀仏および二菩薩(観音・勢至)を見たてまつることを得たり、未来の衆 生はいかんが見たてまつることを得ん〉」といふは、これその七の証なり。八 には次下に、請に答ふるなかに説きてのたまはく、「仏、韋提に告げたまはく、 〈なんぢおよび衆生、かの仏を観ぜんと欲するもの、まさに想念を起すべし〉」 といふは、これその八の証なり。九には像観のなかに説きてのたまふがごとし。 P--321 「仏、韋提に告げたまはく、〈諸仏如来は一切衆生の心想のうちに入りたまふ。 このゆゑになんぢら心に仏(阿弥陀仏)を想ふ時〉」といふは、これその九の証 なり。十には九品のなかに一々に説きて、「もろもろの衆生のためにす」とい ふがごときは、これその十の証なり。上来十句の不同ありといへども、如来 (釈尊)この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、大小 の聖のためにせずといふことを証明す。この文をもつて証するに、あにこれ 謬りならんや。 【21】 第五に別時意を会通すといふはすなはちその二あり。一には『論』(摂 大乗論・意)にいはく、「人、多宝仏を念ずれば、すなはち無上菩提において退 堕せざることを得るがごとし」とは、おほよそ「菩提」といふはすなはちこれ 仏果の名なり、またこれ正報なり。道理として成仏の法は、かならずすべから く万行円かに備へてまさにすなはち剋成すべし。あに念仏の一行をもつてせん や。すなはち成ずることを望まば、この処あることなからん。いまだ証せずと いふといへども、万行のなかにこれその一行なり。なにをもつてか知ることを 得る。『華厳経』(意)に説きたまふがごとし。「功徳雲比丘、善財に語りてい P--322 はく、〈われ仏法三昧海のなかにおいて、ただ一行を知れり。いはゆる念仏三 昧なり〉」と。この文をもつて証するに、あに一行にあらずや。これ一行なり といへども、生死のなかにおいてすなはち成仏に至るまで永く退没せず。ゆゑ に「不堕」と名づく。  問ひていはく、もししからば、『法華経』にのたまはく、「一たび〈南無仏〉 と称すれば、みなすでに仏道を成ず」と。また成仏しをはるべし。この二文な んの差別かある。答へていはく、『論』(摂大乗論)のなかの称仏は、ただみづ から仏果を成ぜんと欲す。『経』(法華経)のなかの称仏は、九十五種の外道に 簡異せんがためなり。しかるに外道のなかにはすべて称仏の人なし。ただ仏を 称すること一口すれば、すなはち仏道のなかにありて摂す。ゆゑに「已竟」と いふと。 【22】 二には『論』(摂大乗論・意)のなかに説きていはく、「人ありてただ発 願するによりて安楽土に生ずるがごとし」とは、久しきよりこのかた、通論の 家、論の意を会せずして、錯りて下品下生の十声の称仏を引きて、これと相似 せしめて、いまだすなはち生ずることを得ずといふ。一金銭の千を成ずること P--323 を得るは、多日にしてすなはち得。一日にすなはち千を成ずることを得るには あらざるがごとし。十声の称仏もまたかくのごとし。ただ遠生のために因とな る。このゆゑにいまだすなはち生ずることを得ず。仏ただ当来の凡夫のために 悪を捨て仏を称せしめんと欲して、誑言して生ずとのたまふ、実にはいまだ生 ずることを得ず、名づけて別時意となすといはば、なんがゆゑぞ、『阿弥陀経』 (意)にのたまはく、「仏、舎利弗に告げたまはく、〈もし善男子・善女人あり て阿弥陀仏を説くを聞かば、すなはち名号を執持すべし。一日乃至七日一心に 生ぜんと願ずれば、命終らんと欲する時、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と迎接し て、往生せしめたまふ〉」と。次下に(同・意)、「十方におのおの恒河沙等の ごとき諸仏、おのおの広長の舌相を出してあまねく三千大千世界に覆ひて、誠 実の言を説きたまふ。〈なんぢら衆生みな、この一切諸仏の護念したまふとこ ろの経を信ずべし〉」と。「護念」といふは、すなはちこれ上の文の一日乃至七 日仏の名を称するなり。いますでにこの聖教ありてもつて明証となす。いぶ かし、今時の一切の行者、知らずなんの意ぞ、凡小の論にすなはち信受を加へ、 諸仏の誠言を返りてまさに妄語せんとする。苦しきかな、なんぞ劇しくよくか P--324 くのごとき不忍の言を出す。しかりといへども、仰ぎ願はくは一切の往生せん と欲する知識等、よくみづから思量せよ。むしろ今世の錯りを傷りて仏語を信 ぜよ。菩薩の論を執して、もつて指南となすべからず。もしこの執によらば、 すなはちこれみづから失し他を誤らん。  問ひていはく、いかんが行を起せるを、しかも往生を得ずといふ。答へてい はく、もし往生せんと欲せば、かならずすべからく行願具足すべし。まさに生 ずることを得べし。いまこの『論』(摂大乗論)のなかには、ただ「発願」とい ひて、行ありと論ぜず。  問ひていはく、なんがゆゑぞ論ぜざる。答へていはく、すなはち一念に至る までかつていまだ心を措かず。このゆゑに論ぜず。  問ひていはく、願行の義になんの差別かある。答へていはく、経のなかに説 きたまふがごとし。ただその行のみあるは、行すなはち孤にしてまた至るとこ ろなし。ただその願のみあるは、願すなはち虚しくしてまた至るところなし。 かならずすべからく願行あひ扶けて所為みな剋すべしと。このゆゑにいまこの 『論』(同)のなかには、ただ「発願」といひて、行ありと論ぜず。このゆゑ P--325 にいまだすなはち生ずることを得ず。遠生のために因となるといふは、その義 実なり。  問ひていはく、願の意いかんぞ、すなはち生ぜずといふ。答へていはく、他 の説きて、「西方は快楽不可思議なり」といふを聞きて、すなはち願をなして いはく、「われもまた願はくは生ぜん」と。この語をいひをはりてさらに相続 せず。ゆゑに願と名づく。いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち 十願十行ありて具足す。いかんが具足する。「南無」といふはすなはちこれ帰 命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその 行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。 【23】 また『論』(摂大乗論)のなかに「多宝仏を称してために仏果を求むる」 とは、すなはちこれ正報にして、下に「ただ発願して浄土に生ぜんと求むる」 とは、すなはちこれ依報なり。一は正、一は依、あに相似することを得んや。 しかるに正報は期しがたし。一行精なりといへどもいまだ剋せず。依報は求 めやすけれども、一願の心をもつてはいまだ入らざる所なり。しかりといへど も、たとへば辺方化に投ずるはすなはち易く、主となることはすなはち難きが P--326 ごとし。今時の往生を願ずるものは、ならびにこれ一切化に投ずる衆生なり。 あに易きにあらずや。ただよく上一形を尽し下十念に至るまで、仏の願力をも つてみな往かざるはなし。ゆゑに易と名づく。これすなはち言をもつて義を定 むべからず。取りて信ずるもの、疑を懐けばなり。かならず聖教を引きて来 し明かし、これを聞くものをしてまさによく惑ひを遣らしめんと欲す。 【24】 第六に二乗種不生の義を会通すとは、問ひていはく、弥陀の浄国ははた これ報なりやこれ化なりや。答へていはく、これ報にして化にあらず。いかん が知ることを得る。『大乗同性経』(意)に説きたまふがごとし。「西方安楽 の阿弥陀仏はこれ報仏・報土なり」と。また『無量寿経』(上・意)にのたま はく、「法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四 十八願を発したまへり。一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、 十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、 もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。いますでに成仏したまへり。すなはちこ れ酬因の身なり。また『観経』(意)のなかの上輩の三人、命終の時に臨みて、 みな「阿弥陀仏および化仏と与にこの人を来迎す」とのたまへり。しかるに報 P--327 身、化を兼ねてともに来りて手を授く。ゆゑに名づけて「与」となす。この文 をもつて証す。ゆゑに知りぬ、これ報なり。しかるに報・応の二身は眼目の異 名なり。前には「報」を翻じて応となし、後には「応」を翻じて報となす。お ほよそ報といふは因行虚しからず、さだめて来果を招く。果をもつて因に応ず、 ゆゑに名づけて報となす。また三大僧祇の所修の万行、必定して応じて菩提を 得。いますでに道成ぜり、すなはちこれ応身なり。これすなはち過・現の諸仏 に三身を弁立す。これを除きて以外さらに別の体なし。たとひ無窮の八相・名 号塵沙なるも、体を剋して論ずれば、すべて化に帰して摂す。いまかの弥陀は 現にこれ報なり。  問ひていはく、すでに報といはば、報身は常住にして永く生滅なし。なん がゆゑぞ、『観音授記経』(意)に、「阿弥陀仏また入涅槃の時あり」と説きた まふ。この一義いかんが通釈せん。答へていはく、入・不入の義はただこれ諸 仏の境界なり。なほ三乗浅智の&M041467;ふところにあらず、あにいはんや小凡たやす くよく知らんや。しかりといへども、かならず知らんと欲せば、あへて仏経を 引きてもつて明証となさん。なんとなれば、『大品経』の「涅槃非化品」(意) P--328 のなかに説きてのたまふがごとし。「仏、須菩提に告げたまはく、〈なんぢが 意においていかん。もし化人ありて化人をなす、この化すこぶる実事にして、 空ならざるものありやいなや〉と。須菩提まうさく、〈いななり、世尊〉と。 仏、須菩提に告げたまはく、〈色すなはちこれ化なり。受・想・行・識すなは ちこれ化なり。乃至一切種智すなはちこれ化なり〉と。須菩提、仏にまうして まうさく、〈世尊、もし世間の法これ化なり、出世間の法もまたこれ化ならば、 いはゆる四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八聖道分・三解脱 門・仏の十力・四無所畏・四無礙智・十八不共法、ならびに諸法の果および賢 聖人、いはゆる須陀&M017421;・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏・菩薩摩訶薩・諸仏 世尊、この法またこれ化なりやいなや〉と。仏、須菩提に告げたまはく、〈一 切の法みなこれ化なり。この法のなかにおいて声聞法の変化あり、辟支仏法の 変化あり、菩薩法の変化あり、諸仏法の変化あり、煩悩法の変化あり、業因縁 法の変化あり。この因縁をもつてのゆゑに、須菩提、一切の法はみなこれ化な り〉と。須菩提、仏にまうしてまうさく、〈世尊、このもろもろの煩悩断の、 いはゆる須陀&M017421;果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果、辟支仏道の、もろもろの P--329 煩悩の習を断ぜるも、みなこれ変化なりやいなや〉と。仏、須菩提に告げたま はく、〈もし法の生滅の相あるは、みなこれ変化なり〉と。須菩提まうさく、 〈世尊、なんらの法か変化にあらざる〉と。仏のたまはく、〈もし法の無生無 滅なる、これ変化にあらず〉と。須菩提まうさく、〈なんらかこれ不生不滅に して変化にあらざる〉と。仏のたまはく、〈誑相なき涅槃、この法のみ変化に あらず〉と。〈世尊、仏のみづから説きたまふがごときは、諸法は平等にして 声聞の作にあらず、辟支仏の作にあらず、諸菩薩摩訶薩の作にあらず、諸仏 の作にあらず。有仏無仏、諸法の性はつねに空なり。性空すなはちこれ涅槃な り。いかんが涅槃の一法のみ化のごとくにあらざる〉と。仏、須菩提に告げた まはく、〈かくのごとしかくのごとし。諸法は平等にして声聞の所作にあらず。 乃至性空すなはちこれ涅槃なり。もし新発意の菩薩、この一切の法はみな畢竟 じて性空なり、乃至涅槃もまたみな化のごとしと聞かば、心すなはち驚怖せん。 この新発意の菩薩のために、ことさらに生滅のものは化のごとく、不生不滅の ものは化のごとくにはあらずと分別するなり〉」と。いますでにこの聖教をも つてあきらかに知りぬ、弥陀はさだめてこれ報なることを。たとひ後に涅槃に P--330 入るとも、その義妨げなし。もろもろの有智のもの知るべし。 【25】 問ひていはく、かの仏および土すでに報といはば、報法は高妙にして、 小聖すら階ひがたし。垢障の凡夫いかんが入ることを得ん。答へていはく、 もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣しがたし。まさしく仏願に託してもつて強 縁となすによりて、五乗をして斉しく入らしむることを致す。  問ひていはく、もし凡夫・小聖生ずることを得といはば、なんがゆゑぞ、 天親の『浄土論』に、「女人および根欠、二乗の種生ぜず」といへる。いまか の国のなかに現に二乗あり。かくのごとき論教、いかんが消釈せん。答へて いはく、なんぢただその文を誦して理を&M041467;はず、いはんや加ふるに封拙懐迷を もつてすれば、啓悟するに由なし。いま仏教を引きてもつて明証となして、 なんぢが疑情を却けん。なんとなれば、すなはち『観経』の下輩の三人これな り。なにをもつてか知ることを得る。下品上生にのたまふがごとし。「あるい は衆生ありて、多く悪法を造りて慚愧あることなし。かくのごとき愚人命終ら んと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて阿弥陀仏を称せしむるに 遇ふ。仏を称する時に当りて化仏・菩薩現じてその前にまします。金光・華蓋 P--331 迎へてかの土に還る。華開以後、観音、ために大乗を説きたまふ。この人聞き をはりてすなはち無上道心を発す」(観経・意)と。  問ひていはく、種と心となんの差別かある。答へていはく、ただ便を取りて いふのみ、義は差別なし。華開くる時に当りて、この人身器清浄にして、ま さしく法を聞くに堪へたり。また大小を簡ばず、ただ聞くことを得ればすなは ち信を生ず。ここをもつて観音、ために小を説かず、先づために大を説きたま ふ。大を聞きて歓喜してすなはち無上道心を発す。すなはち大乗の種生ずと名 づけ、また大乗の心生ずと名づく。また華開くる時に当りて、観音、先づため に小乗を説きたまはば、小を聞きて信を生ぜん。すなはち二乗の種生ずと名 づけ、また二乗の心生ずと名づけん。この品(下品上生)すでにしかなり、下の 二もまたしかなり。この三品の人はともにかしこにありて発心す。まさしく大 を聞くによりてすなはち大乗の種生ず。小を聞かざるによるがゆゑに、ゆゑに 二乗の種生ぜず。おほよそ種といふはすなはちこれその心なり。上来二乗種不 生の義を解しをはりぬ。女人および根欠の義はかしこになきがゆゑに、知るべ し。また十方の衆生、小乗の戒行を修して往生を願ずるもの、一も妨礙なく P--332 ことごとく往生を得。ただかしこに到りて先づ小果を証す。証しをはりてすな はち転じて大に向かふ。一たび転じて大に向かひて以去、さらに退して二乗の 心を生ぜず。ゆゑに二乗種不生と名づく。前の解は不定の始めに就き、後の解 は小果の終りに就く、知るべし。 【26】 第七に韋提、仏の正説を聞きて益を得る分斉を料簡すとは、問ひていは く、韋提すでに忍を得といふ。いぶかし、いづれの時にか忍を得たる、出でて いづれの文にかある。答へていはく、韋提の得忍は、出でて第七観の初めにあ り。『経』(観経・意)にのたまはく、「仏、韋提に告げたまはく、〈仏まさに なんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし〉と。この語を説きたまふ時、 無量寿仏空中に住立したまふ。観音・勢至左右に侍立したまへり。時に韋提、 時に応じて見たてまつることを得て、接足作礼し歓喜讃歎してすなはち無生法 忍を得」と。なにをもつてか知ることを得る。下の利益分のなかに説きてのた まふがごとし。「仏身および二菩薩(観音・勢至)を見たてまつることを得て、 心に歓喜を生じ、未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得」(観経) と。これ光台のなかに国を見し時得たるにはあらず。 P--333  問ひていはく、上の文のなかに説きてのたまはく(観経)、「かの国土の極妙 の楽事を見れば、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得」と。 この一義いかんが通釈せん。答へていはく、かくのごとき義は、ただこれ世尊、 前の別請に酬いて、利益を挙勧したまへる方便の由序なり。なにをもつてか知 ることを得る。次下の文のなかに説きてのたまはく(同)、「諸仏如来に異の方 便ましまして、なんぢをして見ることを得しめたまふ」と。次下の日想・水 想・氷想よりすなはち十三観に至るこのかたをことごとく異の方便と名づく。 衆生をしてこの観門において一々に成ずることを得て、かの妙事を見て心歓喜 するがゆゑに、すなはち無生を得しめんと欲す。これすなはちただこれ如来末 代を慈哀して、挙勧して修することを励まし、積学のものをして遺りなく、聖 力冥に加して現益あらしめんと欲するがゆゑなり。 【27】 証していはく、掌に機糸を握ること十有三結、条々理に順じて、もつ て玄門に応じをはりぬ。この義周りて三たび前の証を呈すものなり。  上来七段の不同ありといへども、総じてこれ文前の玄義なり。経論の相違妨 難を料簡するに、一々に教を引きて証明す。信ずるものをして疑なく、求む P--334 るものをして滞りなからしめんと欲す、知るべし。 観経玄義分 巻第一 P--335 #2序分義    観経序分義 巻第二                            沙門善導集記 【1】 これより以下は文につきて料簡するに、略して五門を作りて義を明かす。 一に「如是我聞」より下「五苦所逼云何見極楽世界」に至るこのかたは、その 序分を明かす。二に日観の初めの句の「仏告韋提汝及衆生」より下下品下生 に至るこのかたは、正宗分を明かす。三に「説是語時」より下「諸天発心」 に至るこのかたは、まさしく得益分を明かす。四に「阿難白仏」より下「韋提 等歓喜」に至るこのかたは、流通分を明かす。この四義は仏王宮にまします一 会の正説なり。五に「阿難耆闍の大衆のために伝説する」よりはまたこれ一会 なり。また三分あり。一に「爾時世尊足歩虚空還耆闍崛山」よりこのかたは、 その序分を明かす。二に「阿難広為大衆説如上事」よりこのかたは、正宗分を 明かす。三に「一切大衆歓喜奉行」よりこのかたは、流通分を明かす。しかる に化にはかならず由あり、ゆゑに先づ序を明かす。由序すでに興りぬればまさ P--336 しく所説を陳ぶ。次に正宗を明かす。ために説くことすでに周りて、所説を もつて末代に伝持せしめんと欲して、勝を歎じて学を勧む。後に流通を明かす。 上来五義の不同ありといへども、略して序・正・流通の義を料簡しをはりぬ。 【2】 また前の序のなかにつきてまた分ちて二となす。一には「如是我聞」よ り一句を名づけて証信序となす。二には「一時」より下「云何見極楽世界」に 至るこのかたは、まさしく発起序を明かす。 【3】 初めに証信といふはすなはち二義あり。一にはいはく、「如是」の二字 はすなはち総じて教主(釈尊)を標す。能説の人なり。二にはいはく、「我聞」 の両字はすなはち別して阿難を指す。能聴の人なり。ゆゑに如是我聞といふ。 これすなはちならべて二の意を釈す。また「如是」といふはすなはち法を指す。 定散両門なり。「是」はすなはち定むる辞なり。機、行ずればかならず益す。 これは如来の所説の言に錯謬なきことを明かす。ゆゑに如是と名づく。また 「如」といふは衆生の意のごとし。心の所楽に随ひて、仏すなはちこれを度し たまふ。機教相応するをまた称して「是」となす。ゆゑに如是といふ。また 「如是」といふは、如来の所説は、漸を説くこと漸のごとく、頓を説くこと頓 P--337 のごとく、相を説くこと相のごとく、空を説くこと空のごとく、人法を説くこ と人法のごとく、天法を説くこと天法のごとく、小を説くこと小のごとく、大 を説くこと大のごとく、凡を説くこと凡のごとく、聖を説くこと聖のごとく、 因を説くこと因のごとく、果を説くこと果のごとく、苦を説くこと苦のごとく、 楽を説くこと楽のごとく、遠を説くこと遠のごとく、近を説くこと近のごとく、 同を説くこと同のごとく、別を説くこと別のごとく、浄を説くこと浄のごとく、 穢を説くこと穢のごとく、一切諸法の千差万別なるを説きたまふに、如来の観 知歴々了然なることを明かさんと欲す。随心の起行、各益の不同、業果の法 然たる、すべて錯失なきをまた称して是となす。ゆゑに如是といふ。「我聞」 といふは、阿難はこれ仏の侍者にして、つねに仏後に随ひて多聞広識なり。身 座下に臨みてよく聴きよく持ちて、教旨親しく承くることを明かして、伝説の 錯りなきことを表せんと欲す。ゆゑに我聞といふ。また「証信」といふは、阿 難仏教を稟承して末代に伝持するに、衆生に対するがためのゆゑにかくのご とき観法、われ仏に従ひて聞くといふことを明かして、可信を証誠せんと欲 す。ゆゑに証信序と名づく。これは阿難につきて解す。 P--338 【4】 二に発起序のなかにつきて細しく分ちて七となす。初めに「一時仏在」 より下「法王子而為上首」に至るこのかたは、化前序を明かす。二に「王舎大 城」より下「顔色和悦」に至るこのかたは、まさしく発起序の禁父の縁を明か す。三に「時阿闍世」より下「不令復出」に至るこのかたは、禁母の縁を明か す。四に「時韋提希被幽閉」より下「共為眷属」に至るこのかたは、厭苦の縁 を明かす。五に「唯願為我広説」より下「教我正受」に至るこのかたは、その 欣浄の縁を明かす。六に「爾時世尊即便微笑」より下「浄業正因」に至るこ のかたは、散善顕行縁を明かす。七に「仏告阿難等諦聴」より下「云何得見極 楽国土」に至るこのかたは、まさしく定善示観縁を明かす。上来七段の不同あ りといへども、広く発起序を料簡しをはりぬ。 【5】 二に次に化前序を解せば、この序のなかにつきてすなはちその四あり。 初めに「一時」といふはまさしく起化の時を明かす。仏まさに説法せんとする に、先づ時処に託したまふ。ただ衆生の開悟かならず因縁によるをもつて、化 主(釈尊)機に臨みて時処を待ちたまふ。また「一時」といふは、あるいは日 夜十二時、年月四時等に就く。これみなこれ如来、機に応じて摂化したまふ時 P--339 なり。「処」といふは、かの所宜に随ひて如来説法したまふ。あるいは山林処 にましまし、あるいは王宮・聚落処にましまし、あるいは曠野・塚間処にまし まし、あるいは多少人天処にましまし、あるいは声聞・菩薩処にましまし、あ るいは八部・人・天王等の処にましまし、あるいは純凡もしは多と一二との処 にましまし、あるいは純聖もしは多と一二との処にまします。その時処に随ひ て如来観知して増せず減ぜず、縁に随ひて法を授けておのおの所資を益す。こ れすなはち洪鐘響くといへども、かならず扣くを待ちてまさに鳴る。大聖(釈 尊)の慈を垂れたまふこと、かならず請を待ちてまさに説くべし。ゆゑに一時 と名づく。また「一時」とは、阿闍世まさしく逆を起す時、仏いづれの処にか まします。この一時に当りて、如来独り二衆(声聞・菩薩)とかの耆闍にましま す。これすなはち下をもつて上を形す意なり。ゆゑに一時といふ。また「一 時」といふは、仏、二衆と一時のうちにおいて、かの耆闍にましまして、すな はち阿闍世のこの悪逆を起す因縁を聞きたまふ。これすなはち上をもつて下を 形す意なり。ゆゑに一時といふ。二に「仏」といふは、これすなはち化主を標 定す。余仏に簡異して独り釈迦を顕す意なり。三に「在王舎城」より以下は、 P--340 まさしく如来遊化の処を明かす。すなはちその二あり。一には王城・聚落に遊 びたまふは、在俗の衆を化せんがためなり。二には耆山等の処に遊びたまふは、 出家の衆を化せんがためなり。また在家といふは、五欲を貪求すること相続し てこれ常なり。たとひ清心を発せども、なほ水に画くがごとし。ただおもんみ れば縁に随ひてあまねく益し、大悲を捨てたまはざれども、道俗形殊なればと もに住するに由なし。これを境界住と名づく。また出家といふは、身を亡じ 命を捨て、欲を断じ真に帰す。心金剛のごとく円鏡に等同なり。仏地を&M010661;求し てすなはち弘く自他を益す。もし囂塵を絶離するにあらずは、この徳、証すべ きに由なし。これを依止住と名づく。四に「与大比丘衆」より下「而為上首」 に至るこのかたは、仏の徒衆を明かす。この衆のなかにつきてすなはち分ちて 二となす。一には声聞衆、二には菩薩衆なり。声聞衆のなかにつきてすなはち その九あり。初めに「与」といふは仏身、衆を兼ぬ。ゆゑに名づけて与となす。 二には総大、三には相大、四には衆大、五には耆年大、六には数大、七には尊 宿大、八には内有実徳大、九には果証大なり。  問ひていはく、一切の経の首めにみなこれらの声聞ありて、もつて猶置とな P--341 せるはなんの所以かある。答へていはく、これに別意あり。いかなるか別意。 これらの声聞多くはこれ外道なり。『賢愚経』(意)に説きたまふがごとし。 「優楼頻螺迦葉は、五百の弟子を領して邪法を修事す。伽耶迦葉は、二百五十 の弟子を領して邪法を修事す。那提迦葉は、二百五十の弟子を領して邪法を修 事す。総じて一千あり。みな仏化を受けて羅漢道を得たり。その二百五十とい ふは、すなはちこれ舎利と目連との弟子なり。ともに一処に領して邪法を修事 す。また仏化を受けてみな道果を得たり。これらの四衆を合して一処となす。 ゆゑに千二百五十人あり」と。  問ひていはく、この衆のなかにまた外道にあらざるものあり。なんがゆゑぞ 総じて標する。答へていはく、『経』(同・意)のなかに説きたまふがごとし。 「このもろもろの外道つねに世尊に随ひてあひ捨離せず」と。しかるに結集の 家、外徳を簡び取る。ゆゑに異名あり。これ外道なるものは多く、あらざるも のは少なし。  また問ひていはく、いぶかし、これらの外道つねに仏後に随へるは、なんの 意かあるや。答へていはく、解するに二義あり。一には仏につきて解す。二に P--342 は外道につきて解す。仏につきて解すとは、このもろもろの外道邪風久しく扇 ぐこと、これ一生のみにあらず。真門に入るといへども、気習なほあり。ゆゑ に如来知覚して外化せしめざらしむ。衆生の正見の根芽を損じ、悪業増長して、 此世・後生に果実を収めざることを畏るればなり。この因縁のために摂してみ づから近づかしめて、外益を聴したまはず。これすなはち仏につきて解しをは りぬ。次に外道につきて解すとは、迦葉等の意、みづからただ曠劫より久しく 生死に沈み六道に循還して、苦しみいふべからず。愚痴・悪見にして邪風に封 執し、明師に値はずして永く苦海に流る。ただ宿縁をもつてたまたま慈尊(釈 尊)に会ふことを得ることあり。法沢わたくしなし。わが曹、潤を蒙り、仏の 恩徳を尋思するに、砕身の極惘然たり。親しく霊儀に事へて、しばらくも替る に由なからしむることを致す。これすなはち外道につきて解しをはりぬ。  また問ひていはく、これらの尊宿いかんが衆所知識と名づくる。答へていは く、徳高きを尊といひ、耆年なるを宿といふ。一切の凡聖かの内徳の、人に過 ぎたることを知り、その外相の殊異なるを識る。ゆゑに衆所知識と名づく。  上来九句の不同ありといへども、声聞衆を解しをはりぬ。次に菩薩衆を解す。 P--343 この衆のなかにつきてすなはちその七あり。一には相を標す。二には数を標す。 三には位を標す。四には果を標す。五には徳を標す。六には別して文殊の高徳 の位を顕す。七には総じて結す。またこれらの菩薩無量の行願を具し、一切の 功徳の法に安住す。十方に遊歩して権方便を行じ、仏の法蔵に入りて彼岸を究 竟す。無量の世界において、化して等覚を成ず。光明顕曜にしてあまねく十方 を照らす。無量の仏土六種に震動す。縁に随ひて開示してすなはち法輪を転ず。 法鼓を扣き、法剣を執り、法雷を震ひ、法雨を雨らし、法施を演ぶ。つねに法 音をもつてもろもろの世間を覚せしむ。邪網を掴裂し、諸見を消滅し、もろも ろの塵労を散じ、もろもろの欲塹を壊り、清白を顕明し、仏法を光融し、正 化を宣流す。衆生を愍傷していまだかつて慢恣せず。平等の法を得て無量百 千三昧を具足す。一念のあひだにおいて周遍せざるはなし。群生を荷負してこ れを愛すること子のごとし。一切の善本みな彼岸に度す。ことごとく諸仏の無 量の功徳を獲て、智慧開朗なること思議すべからず。七句の不同ありといへど も、菩薩衆を解しをはりぬ。上来二衆の不同ありといへども、広く化前序を明 かしをはりぬ。 P--344 【6】 二に禁父の縁のなかにつきてすなはちその七あり。一に「爾時王舎大城」 より以下は、総じて起化の処を明かす。これ往古の百姓、ただ城中に舎を造 るにすなはち天火のために焼かる。もしこれ王家の舎宅には、ことごとく火近 づくことなし。後の時に百姓ともに王に奏す。「臣等宅を造ればしばしば天火 のために焼かる、ただこれ王舎のみことごとく火近づくことなし。なんの所以 かあるといふことを知らず」と。王、奏人に告げたまはく、「いまより以後な んぢら宅を造る時、〈ただわれいま王のために舎を造る〉といふべし」と。奏 人等おのおの王の勅を奉りて、帰還りて舎を造るにさらに焼かれず。これに よりて相伝して、ことさらに王舎と名づくることを明かす。「大城」といふは、 この城きはめて大にして、居民九億なり。ゆゑに王舎大城といふ。起化の処と いふはすなはちその二あり。一にはいはく、闍王悪を起してすなはち父母を禁 ずる縁あり。禁によりてすなはちこの娑婆を厭ひて、無憂の世界に託せんと願 ず。二にはすなはち如来(釈尊)請に赴き、光変じて台となりて霊儀を影現し たまふに、夫人すなはち安楽に生ずることを求む。また心を傾けて行を請ひ、 仏は三福の因を開きたまふ。正観はすなはちこれ定門なり。さらに九章の益を P--345 顕す。この因縁のためのゆゑに起化の処と名づく。二に「有一太子」より下 「悪友之教」に至るこのかたは、まさしく闍王&M010496;忽のあひだに悪人の誤るとこ ろを信受することを明かす。「太子」といふはその位を彰す。「阿闍世」とい ふはその名を顕す。また「阿闍世」といふはすなはちこれ西国の正音なり。こ の地の往翻には未生怨と名づけ、また折指と名づく。  問ひていはく、なんがゆゑぞ「未生怨」と名づけ、および「折指」と名づく るや。答へていはく、これみな昔日の因縁を挙ぐ。ゆゑにこの名あり。因縁と いふは、元本父の王、子息あることなし。処々に神に求むれども、つひに得る ことあたはず。たちまちに相師ありて、王に奏してまうさく、「臣知れり。山 のなかに一の仙人あり。久しからずして寿を捨て、命終しをはりて後かなら ずまさに王のために子となるべし」と。王聞きて歓喜す。「この人いづれの時 にか捨命する」と。相師、王に答ふ。「さらに三年を経てはじめて命終すべ し」と。王いはく、「われいま年老いて国に継祀なし。さらに三年を満つるま でなにによりてか待つべき」と。王すなはち使ひを遣はして山に入らしめ、往 きて仙人に請じていはしむ。「大王子なく、闕けて紹継なし。処々に神に求む P--346 るに、得ることあたはざるに困しむ。すなはち相師ありて大仙を瞻見るに、久 しからずして捨命して、王のために子となるべしと。請ひ願はくは大仙、恩を 垂れて早く赴きたまへ」と。使人、教を受けて山に入り、仙人の所に到りて、 つぶさに王請の因縁を説く。仙人、使者に報へていはく、「われさらに三年を 経てはじめて命終すべし。王のすなはち赴けと勅するは、この事不可なり」 と。使ひ、仙の教を奉けて、還りて大王に報ずるに、つぶさに仙の意を述ぶ。 王いはく、「われはこれ一国の主なり。あらゆる人物みなわれに帰属す。いま ことさらに礼をもつてあひ屈するに、すなはちわが意を承けざるや」と。王さ らに使者に勅す。「なんぢ往きてかさねて請ぜよ。請ぜんにもし得ずは、まさ にすなはちこれを殺すべし。すでに命終しをはりなば、わがために子となら ざるべけんや」と。使人、勅を受けて、仙人の所に至りて、つぶさに王の意を いふ。仙人、使ひの説を聞くといへども、意にまた受けず。使人、勅を奉けて すなはちこれを殺さんと欲す。仙人いはく、「なんぢまさに王に語るべし。〈わ が命いまだ尽きざるに、王、心口をもつて人をしてわれを殺さしむ。われもし 王のために児とならば、また心口をもつて人をして王を殺さしめん〉」と。仙 P--347 人この語をいひをはりてすなはち死を受く。すでに死しをはりて、すなはち王 宮に託して生を受く。その日の夜に当りて夫人すなはち有身すと覚ゆ。王聞き て歓喜す。天明けてすなはち相師を喚びて、もつて夫人を観しむ。これ男なり やこれ女なりや。相師観をはりて王に報へていはく、「この児は女にあらず。 この児、王において損あるべし」と。王いはく、「わが国土はみなこれを捨属 すべし。たとひ損ずるところありとも、われまた畏れなし」と。王この語を聞 きて憂喜交はり懐く。王、夫人にまうしてまうさく、「われ夫人とともにひそ かにみづから平章せん。相師、児われにおいて損あるべしといふ。夫人これ を生む日を待ちて、高楼の上にありて天井のなかに当りてこれを生み、人をし て承け接らしむることなかれ。落して地にあらんに、あに死せざるべけんや。 われまた憂ふることなく、声もまた露れじ」と。夫人すなはち王の計を可とし、 その生む時におよびてもつぱら前の法のごとくす。生みをはりて地に堕つるに、 命すなはち断えず、ただ手の小指を損ず。よりてすなはち外人同じく唱へて 「折指太子」といふ。「未生怨」といふは、これ提婆達多悪妬の心を起すがゆ ゑにかの太子に対して昔日の悪縁を顕発するによる。いかんが妬心して悪縁を P--348 起す。提婆悪性にして、為人匈猛なり。また出家すといへども、つねに仏の 名聞・利養を妬む。しかるに父の王はこれ仏の檀越なり。一時のうちにおいて 多く供養をもつて如来に奉上す。いはく、金・銀・七宝・名衣・上服・百味の 菓食等、一々色々みな五百車なり。香・華・伎楽し、百千万の衆、讃歎囲繞し て仏会に送向して、仏および僧に施す。時に調達(提婆達多)見をはりて妬心 さらに盛りなり。すなはち舎利弗の所に向かひて身通を学せんと求む。尊者語 りていはく、「なんぢしばらく四念処を学せよ。身通を学すべからず」と。す でに請ずれども心を遂げず。さらに余の尊者の辺に向かひて求む。乃至五百の 弟子等ことごとく人として教ふるものなし、みな四念処を学せしむ。請ずるこ と已むことを得ずして、つひに阿難の辺に向かひて学す。阿難に語りていはく、 「なんぢはこれわが弟なり。われ通を学せんと欲す。一々次第にわれに教へ よ」と。しかるに阿難初果を得たりといへども、いまだ他心を証せず。阿兄の ひそかに通を学して、仏の所において悪計を起さんと欲することを知らず。阿 難つひにすなはち喚びて静処に向かひて、次第にこれを教ふ。跏趺正坐せしめ て、先づ心をもつて身を挙ぐることを教ふ。動くに似たりと想へ。地を去るこ P--349 と一分・一寸すると想へ。一尺・一丈すると想へ。舎に至るに、空無礙の想を なし、ただちに過ぎて空中に上ると想へ。また心を摂して下り、本の坐処に至 ると想へ。次に身をもつて心を挙げ、初めの時に地を去ること一分・一寸する 等、また前の法のごとくせよ。身をもつて心を挙げ、心をもつて身を挙ぐるに、 また随ひてすでに至る。空に上りをはりて、また身を摂取して下り、本の坐処 に至れ。次に身心合して挙ぐと想へ。また前の法に同じく、一分・一寸する等、 周りてまた始めよ。次に身心一切の質礙色境のなかに入ると想ひ、不質礙の 想をなせ。次に一切の山河大地等の色、自身のなかに入るに、空のごとく無礙 にして色相を見ずと想へ。次に自身、あるいは大にして虚空に遍満して坐臥自 在なり、あるいは坐し、あるいは臥して、手をもつて日月を捉り動かすと想へ。 あるいは小身となりて微塵のなかに入るに、一切みな無礙の想をなせと。阿難 かくのごとく次第に教へをはりぬ。時に調達(提婆達多)すでに法を受得しを はりて、すなはち別して静処に向かひて七日七夜一心専注して、すなはち身通 を得たり。一切自在にしてみな成就することを得たり。すでに通を得をはりて すなはち太子の殿の前に向かひて、空中にありて大神変を現ず。身上より火を P--350 出し、身下より水を出す。あるいは左辺に水を出し、右辺に火を出す。あるい は大身を現じ、あるいは小身を現ず。あるいは空中に坐臥し、意に随ひて自在 なり。太子見をはりて左右に問ひていはく、「これはこれ何人ぞ」と。左右、 太子に答へてまうさく、「これはこれ尊者提婆なり」と。太子聞きをはりて心 大きに歓喜す。つひにすなはち手を挙げて喚びていはく、「尊者なんぞ下り来 らざる」と。提婆すでに喚ぶを見をはりてすなはち化して嬰児となり、ただち に太子の膝の上に向かふ。太子すなはち抱きて、口を嗚ひてこれを弄び、また 口のなかに唾はく。嬰児つひにこれを咽む。須臾に還りて本身に復す。太子す でに提婆の種々の神変を見てうたた敬重を加ふ。すでに太子の心敬重せるを 見をはりて、すなはち父の王の供養の因縁を説く。「色別に五百乗の車に載せ、 仏の所に向かひて仏および僧にたてまつる」と。太子聞きをはりてすなはち尊 者に語る。「弟子またよく色おのおの五百車を備へ具へて、尊者を供養し、お よび衆僧に施すこと、かれのごとくならざるべけんや」と。提婆いはく、「太 子、この意大きに善し」と。これより以後大きに供養を得、心うたた高慢なり。 たとへば杖をもつて悪狗の鼻を打つに、うたた狗の悪を増すがごとし。これま P--351 たかくのごとし。太子いま利養の杖をもつて提婆が貪心の狗の鼻を打つに、う たた悪を加すこと盛りなり。これによりて僧を破し、仏法の戒を改めて、教戒 不同なり。仏あまねく凡聖大衆のために法を説きたまふ時を待ちて、すなはち 会中に来りて仏に従ひ、徒衆ならびにもろもろの法蔵ことごとくわれに付嘱し たまへと索む。「世尊は年まさに老邁したまへり。よろしく静内につきてみづ から将養したまふべし」と。一切の大衆、提婆がこの語を聞きて、愕爾として たがひにあひ看てはなはだ驚怪を生ず。その時世尊、すなはち大衆に対して提 婆に語りてのたまはく、「舎利・目連等のすなはち大法将なるすら、われなほ 仏法をもつて付嘱せず、いはんやなんぢ痴人唾を食らへるものをや」と。時に 提婆、仏の、衆に対して毀辱したまふを聞き、なほ毒箭の心に入るがごとし、 さらに痴狂の意を発す。この因縁によりてすなはち太子の所に向かひてともに 悪計を論ず。太子すでに尊者を見て、敬心をもつて承問していはく、「尊者、 今日顔色憔悴せること、往昔に同じからず」と。提婆答へていはく、「われい ま憔悴することはまさしく太子のためなり」と。太子敬ひて問はく、「尊者、 わがためになんの意かあるや」と。提婆すなはち答へていはく、「太子知るや P--352 いなや。世尊年老いて堪任するところなし。まさにこれを除きてわれみづから 仏と作るべし。父の王年老いたり。またこれを除きて太子みづから正位に坐す べし。新王と新仏と治化せんに、あに楽しからざらんや」と。太子これを聞き てきはめて大きに瞋怒して、「この説をなすことなかれ」といふ。またいはく、 「太子瞋ることなかれ。父の王、太子においてまつたく恩徳なし。はじめて太 子を生ぜんと欲せし時、父の王すなはち夫人をして百尺の楼の上にありて天 井のなかに当りて生ぜしめて、すなはち地に堕して死せしめんと望む。まさし く太子の福力をもつてのゆゑに命根断えず、ただ小指を損ず。もし信ぜずは、 みづから小指を看たまへ。もつて験となすに足れり」と。太子すでにこの語を 聞きて、さらにかさねて審めていはく、「実にしかりやいなや」と。提婆答へ ていはく、「これもし不実ならば、われことさらに来りて漫語をなすべけんや」 と。この語によりをはりてつひにすなはち提婆が悪見の計を信用す。ゆゑに 「随順調達悪友之教」といふ。  三に「収執父王」より下「一不得往」に至るこのかたは、まさしく父の王 子のために幽禁せらるることを明かす。これ闍世、提婆の悪計を取りて、たち P--353 まちに父子の情を捨つることを明かす。ただ罔極の恩を失するのみにあらず、 逆の響きこれによりて路に満てり。たちまちに王の身を掩ふを「収」といひ、 すでに得て捨てざるを「執」といふ。ゆゑに収執と名づく。「父」といふは別 して親の極を顕す。「王」とはその位を彰す。「頻婆」とはその名を彰す。「幽 閉七重室内」といふは、所為すでに重し、事また軽きにあらず。浅く人間に禁 ずべからず、まつたく守護なければなり。ただ王の宮閤は理として外人を絶つ とも、ただ群臣あればすなはち久しきよりこのかた承奉せるをもつて、もし厳 制せずはおそらくは情通あらん。ゆゑに内外をして交はりを絶たしめて、閉ぢ て七重のうちに在く。四に「国大夫人」より下「密以上王」に至るこのかたは、 まさしく夫人密かに王に食をたてまつることを明かす。「国大夫人」といふは、 これ最大なることを明かす。「夫人」といふはその位を標す。「韋提」といふ はその名を彰す。「恭敬大王」といふは、これ夫人すでに王の身禁ぜらるるを 見るに、門戸きはめて難くして、音信通ぜず、おそらくは王の身命を絶つこと を。つひにすなはち香湯滲浴して身をして清浄ならしめて、すなはち酥蜜を 取りて先づその身に塗り、後に乾&M047733;を取りてはじめて酥蜜の上に安き、すなは P--354 ち浄衣を着てこれを覆ひて、外衣の上にありてはじめて瓔珞を着ること、常の 服法のごとくにして、外人をして怪しまざらしむ。また瓔珞を取りて孔の一頭 蝋をもつてこれを塞ぎ、一頭の孔のなかに蒲桃の漿を盛りて、満てをはりてま た塞ぐに、ただこれ瓔珞なり。ことごとくみなかくのごとくす。荘厳すること すでに竟りて、やうやく歩みて宮に入りて、王とあひ見ゆることを明かす。  問ひていはく、諸臣は勅を奉けて王に見ゆることを許さず。いぶかし、夫人 は門家制せずしてほしいままに入ることを得しむるは、なんの意かあるや。答 へていはく、諸臣は身異なりて、またこれ外人なり。情通あることを恐れて、 厳しく重制を加へしむることを致す。また夫人は身これ女人にして、心に異計 なし。王と宿縁業重くして、久しく近づきて夫妻なり。別体同心にして、人を して外慮なからしむることを致す。ここをもつて入りて、王とあひ見ゆること を得しむ。  五に「爾時大王食&M047733;」より下「授我八戒」に至るこのかたは、まさしく父の 王、禁によりて法を請ずることを明かす。これ夫人すでに王に見えをはりて、 すなはち身上の酥を刮り取りて、&M047733;団をもつて王に授与す。王得てすなはち食 P--355 す。&M047733;を食することすでに竟りて、すなはち宮内において夫人浄水を求め得て、 王に与へて口を漱がしむ。口を浄めをはりて虚しく時を引くべからず。朝心寄 るところなし。ここをもつて虔恭合掌して、面を回らして耆闍に向かひ、敬を 如来に致して加護を請求することを明かす。これ身業の敬を明かす、また通じ て意業あり。「而作是言」以下は、まさしく口業の請を明かす、また通じて意 業あり。「大目連是吾親友」といふはその二意あり。ただ目連俗にありてはこ れ王の別親なり。すでに出家を得てすなはちこれ門師なり。宮閤に往来するこ とすべて障礙なし。しかるに俗にありては親となし、出家しては友と名づく。 ゆゑに親友と名づく。「願興慈悲授我八戒」といふは、これ父の王、法を敬ふ 情深くして、人を重んずることおのれに過ぎたることを明かす。もしいまだ幽 難に逢はずは、仏僧を奉請するに難しとなすに足らず。いますでに囚はれて屈 を致すに由なし。ここをもつてただ目連を請じて八戒を受く。  問ひていはく、父の王はるかに敬ふには、先づ世尊を礼し、その受戒に及び てすなはち目連を請ずるは、なんの意かあるや。答へていはく、凡聖の極尊、 仏に過ぎたるはなし。心を傾けて願を発すにはすなはち先づ大師(釈尊)を礼 P--356 す。戒はこれ小縁なり。ここをもつてただ目連の来りて授くることを請ず。し かるに王の意は貴ぶこと得戒に存ず。すなはちこれ義あまねし。なんぞ労しく 迂げて世尊を屈せんや。  問ひていはく、如来の戒法すなはちあること無量なるに、父の王ただ八戒の みを請じて余を請ぜずや。答へていはく、余戒はやや寛くして時節長遠なり。 おそらくは中間に失念して生死に流転することを。その八戒とは余の仏経に説 きたまふがごとし。在家の人、出家の戒を持つ。この戒の持心極細極急なり。 なんの意ぞしかるとなれば、ただ時節やや促まりて、ただ一日一夜を限りて作 法してすなはち捨つ。いかんがこの戒の用心と行との細なることを知る。戒文 のなかにつぶさに顕していふがごとし。「仏子、今旦より明旦に至るまで一日 一夜、諸仏の殺生したまはざるがごとくよく持つやいなや」と。答へていはく、 「よく持つ」と。第二にまたいはく、「仏子、今旦より明旦に至るまで一日一 夜、諸仏の、偸盗せず、婬を行ぜず、妄語せず、飲酒せず、脂粉を身に塗るこ とを得ず、歌舞唱伎しおよび往きて観聴することを得ず、高広の大床に上るこ とを得たまはざるがごとくすべし」と。この上の八はこれ戒にして斎にあらず。 P--357 中を過ぎて食することを得ず、この一はこれ斎にして戒にあらず。これらの諸 戒みな諸仏を引きて証となす。なにをもつてのゆゑに。ただ仏と仏とのみ正 習ともに尽したまへり。仏を除きて以還は悪習等なほあり。このゆゑに引きて 証となさず。ここをもつて知ることを得。この戒の用心と起行ときはめてこれ 細急なり。またこの戒には、仏八種の勝法ありと説きたまへり。もし人一日一 夜つぶさに持ちて犯さざれば、所得の功徳、人・天・二乗の境界に超過せり。 経に広く説きたまふがごとし。この益あるがゆゑに、父の王をして日々にこれ を受けしむることを致す。  六に「時大目連」より下「為王説法」に至るこのかたは、その父の王請によ りて聖法を蒙ることを得ることを明かす。これ目連、他心智を得てはるかに父 の王の請意を知りて、すなはち神通を発して弾指のあひだのごとくに王の所に 到ることを明かす。またおそらくは人神通の相を識らざらん。ゆゑに快鷹を引 きて喩へとなす。しかるに目連の通力は、一念のあひだに四天下を繞ること百 千の匝なり。あに鷹と類をなすことを得んや。かくのごとき比校はすなはち衆 多あり。つぶさに引くべからず。『賢愚経』につぶさに説きたまふがごとし。 P--358 「日日如是授王八戒」といふは、これ父の王命を延べて、目連しばしば来りて 戒を受けしむることを致すことを明かす。  問ひていはく、八戒すでに勝れたりといふは、一たび受くるにすなはち足り ぬ。なんぞ日々にこれを受くるを須ゐん。答へていはく、山は高きを厭はず、 海は深きを厭はず、刀は利きを厭はず、日は明きを厭はず、人は善を厭はず、 罪は除こるを厭はず、賢は徳を厭はず、仏は聖を厭はず。しかるに王の意はす でに囚禁せられて、さらに進止を蒙らず。念々のうちに人の喚び殺すことを畏 る。これがために昼夜に心を傾け、仰ぎて八戒を憑む。善を積むことますます 高きことを望欲して来業を資せんと擬す。  「世尊亦遣富楼那為王説法」といふは、これ世尊慈悲の意重くして、王の身 を愍念したまふに、たちまちに囚労に遇ひて、おそらくは憂悴を生ずることを。 しかるに富楼那は聖弟子のなかにおいてもつともよく説法し、よく方便ありて 人の心を開発す。この因縁のために、如来発遣して王のために法を説きて、も つて憂悩を除かしめたまふことを明かす。七に「如是時間」より下「顔色和 悦」に至るこのかたは、まさしく父の王、食と聞法とによりて多日死せざるこ P--359 とを明かす。これまさしく夫人多時に食をたてまつりて、もつて飢渇を除き、 二聖(目連・富楼那)また戒法をもつてうちに資けてよく王の意を開く。食はよ く命を延べ、戒法は神を養ひて、苦を失し憂ひを亡じて、顔容和悦ならしむる ことを致すことを明かす。上来七句の不同ありといへども、広く禁父の縁を明 かしをはりぬ。 【7】 三に禁母の縁のなかにつきてすなはちその八あり。一には「時阿闍世」 より下「由存在耶」に至るこのかたは、まさしく父の音信を問ふことを明かす。 これ闍王、父を禁ずること日数すでに多し。人の交はりすべて絶え、水食通ぜ ずして二七有余なり。命終るべし。この念をなしをはりて、すなはち宮門に致 りて守門のものに問ひて、「父の王いまなほ存在せりや」といふことを明かす。  問ひていはく、もし人一餐の飯を食して、限り七日に至りぬればすなはち死 す。父の王三七を経たるをもつて計るに、命断ゆべきこと疑なし。闍王なにを もつてかただちに問ひて、「門家、父の王いま死しをはれりや」といはずして、 いかんぞ疑を致して「なほ存在せりや」と問へるは、なんの意かあるや。答へ ていはく、これはこれ闍王意密の問なり。ただおもんみれば万基の主なれば、 P--360 挙動随宜なるべからず。父の王すでにこれ天性情親し、いひて「死せりや」 と問ふべきことなし。おそらくは失、当時にありて、もつて譏過を成ずること を。ただおもんみれば内心に死を標して、口に「ありや」と問へるは、永き悪 逆の声を息めんと欲するがためなり。  二に「時守門人白言」より下「不可禁制」に至るこのかたは、まさしく門家 事をもつてつぶさに答ふることを明かす。これ闍世前に「父の王ありや」と問 へば、いま次に門家奉答することを明かす。「白言大王国大夫人」といふ以下 は、まさしく夫人密かに王に食をたてまつるに、王すでに食を得。食よく命を 延べて、多日を経といへども父の命なほ存ず。これすなはち夫人の意にして、 この門家の過にはあらずといふことを明かす。  問ひていはく、夫人食をたてまつるに、身の上に&M047733;を塗りて衣の下に密かに 覆ふ。出入往還するに、人の見ることを得ることなし。なんがゆゑぞ門家つ ぶさに夫人食をたてまつる事を顕す。答へていはく、一切の私密久しく行ずべ からず。たとひ巧みに牢く蔵せども、事還りて彰露る。父の王すでに禁ぜられ て宮内にあり、夫人日々に往還す。もし密かに&M047733;を持ちて食せしめずは、王の P--361 命活くること得るに由なし。いま「密」といふは、門家に望めて夫人の意を述 ぶるなり。夫人密して外人知らずと謂へども、その門家ことごとくもつてこれ を覚らざらんや。いますでに事窮まりて、あひ隠すに由なし。ここをもつて一 一つぶさに王に向かひて説く。  「沙門目連」といふ以下は、まさしく二聖(目連・富楼那)空に騰りて来去し、 門路によらず。日々に往還して王のために法を説く。大王まさに知るべし。夫 人の進食先に王の教を奉けず、ゆゑにあへて遮約せず。二聖空に乗ず、これま た門制によらずといふことを明かす。三に「時阿闍世聞此語」より下「欲害其 母」に至るこのかたは、まさしく世王の瞋怒を明かす。これ闍王すでに門家の 分疏を聞きをはりて、すなはち夫人において心に悪怒を起し、口に悪辞を陳ぶ ることを明かす。また三業の逆と三業の悪とを起す。父母を罵りて賊となすを 口業の逆と名づく。沙門を罵るを口業の悪と名づく。剣を執りて母を殺さんと するを身業の逆と名づく。身口の所為、心をもつて主となすを、すなはち意業 の逆と名づく。また前方便を悪となし、後の正行を逆となす。「我母是賊」 といふ以下は、まさしく口に悪辞を出すことを明かす。いかんぞ母を罵りて、 P--362 「賊なり、賊の伴なればなり」となす。ただ闍王の元の心怨を父に致し、早く 終らざることを恨むに、母すなはち和してために糧を進むるがゆゑに死せざら しむ。このゆゑに罵りて、「わが母はこれ賊なり、賊の伴なればなり」といふ。 「沙門悪人」といふ以下は、これ闍世、母の食を進むることを瞋り、また沙門、 王のために来去することを聞きて、さらに瞋心を発さしむることを致すことを 明かす。「ゆゑになんの呪術ありてか悪王をして多日に死せざらしむ」といふ。 「即執利剣」といふ以下は、これ世王の瞋り盛りにして、逆母に及ぶことを明 かす。なんぞそれ痛ましきかな。頭を撮りて剣を擬す。身命たちまちに須臾に あり。慈母合掌して身を曲げ頭を低れ、児の手に就く。夫人その時熱き汗あま ねく流れて、心神悶絶す。ああ哀れなるかな、&M010496;忽のあひだにこの苦難に逢へ ること。四に「時有一臣名曰月光」より下「却行而退」に至るこのかたは、 まさしく二臣(月光・耆婆)切諫して聴さざることを明かす。これ二臣はすなは ちこれ国の輔相、立政の綱紀なり。万国に名を揚げ、八方&M013796;習することを得 んと望む。たちまちに闍王の勃逆を起して、剣を執りてその母を殺さんと欲す るを見て、この悪事を見るに忍びず。つひに耆婆と顔を犯して諫を設くること P--363 を明かす。「時」といふは、闍王母を殺さんと欲する時に当れり。「有一大臣」 といふはその位を彰す。「月光」といふはその名を彰す。「聡明多智」といふ はその徳を彰す。「及与耆婆」といふは、耆婆はまたこれ父の王の子にして、 奈女の児なり。たちまちに家兄の母において逆を起すを見て、つひに月光と同 じく諫む。「為王作礼」といふは、おほよそ大人を諮諫せんと欲する法は、か ならずすべからく拝を設けて、もつて身敬を表すべし。いまこの二臣(月光・ 耆婆)もまたしかなり。先づ身敬を設けて王の心を覚動し、手を斂め躬を曲げ てまさに本意を陳ぶ。また「白言大王」といふは、これ月光まさしく辞を陳べ んと欲して、闍王、心を開き聴攬することを得んと望むことを明かす。この因 縁のためのゆゑに、先づ「白」を須ゐる。「臣聞毘陀論経説」といふは、これ 広く古今の書史、歴帝の文記を引くことを明かす。古人いはく、「いふこと典 に関らざるは君子の慚づるところなり」と。いますでに諫事軽からず、あに虚 言をもつて妄説すべけんや。「劫初以来」といふはその時を彰す。「有諸悪王」 といふは、これ総じて非礼暴逆の人を標することを明かす。「貪国位故」とい ふは、これ非意に父の坐処を貪奪するところを明かす。「殺害其父」といふは、 P--364 これすでに父において悪を起すことは久しく留むべからず。ゆゑにすべからく 命を断ずべしといふことを明かす。「一万八千」といふは、これ王いま父を殺 すことは、かれと類同することを明かす。「未曾聞有無道害母」といふは、こ れ古より今に至るまで、父を害して位を取ることは史籍やや談ずるも、国を貪 じて母を殺すことはすべて記せる処なきことを明かす。もし劫初以来を論ぜば、 悪王国を貪ぜしに、ただその父を殺して慈母に加へず。これすなはち古の今に 異なるを引く。大王いま国を貪じて父を殺す。父はすなはち位の貪ずべきこと あり。古に類同せしむべし。母はすなはち位の求むべきなし。横に逆害を加ふ。 ここをもつて今をもつて昔に異す。「王いまこの殺母をなさば、刹利種を汚さ ん」といふ。「刹利」といふは、すなはちこれ四姓の高元、王者の種なり、代 代相承す。あに凡砕に同じからんや。「臣不忍聞」といふは、王、悪を起して 宗親を損辱するを見ば、悪声流布せん。わが性望恥慚するに地なし。「是旃陀 羅」といふはすなはちこれ四姓の下流なり。これすなはち性、匈悪を懐きて仁 義を閑はず。人の皮を着たりといへども、行ひ禽獣に同じ。王は上族に居して、 押して万基に臨む主なり。いますでに悪を起して恩に加ふ、かの下流となんぞ P--365 異ならんや。「不宜住此」といふはすなはち二義あり。一には王いま悪を造り て風礼を存ぜず。京邑神州、あに旃陀羅をして主たらしめんや。これすなは ち宮城を擯出する意なり。二には王国にありといへどもわが宗親を損ぜば、遠 く他方に擯して永く無聞の地に絶たんにはしかず。ゆゑに不宜住此といふ。 「時二大臣説此語」といふ以下は、これ二臣(月光・耆婆)の直諫切にして、語 きはめて粗くして、広く古今を引きて、王の心開悟することを得んと望むこと を明かす。「以手按剣」といふは、臣みづから手中の剣を按ずるなり。  問ひていはく、諫辞粗悪にして顔を犯すことを避けず、君臣の義すでに乖け り。なにをもつてか身を回らしてただちに去らずして、すなはち却行而退す といふや。答へていはく、粗言王に逆ふといへども、害母の心を息むることを 望む。またおそらくは瞋毒いまだ除こらず、繋けたる剣おのれを危ふくするこ とを。ここをもつて剣を按じてみづから防ぎて、却行して退く。  五に「時阿闍世驚怖」より下「汝不為我耶」に至るこのかたは、まさしく世 王怖れを生ずることを明かす。これ闍世すでに二臣の諫辞粗切なるを見、また 剣を按じて去るを覩て、臣われを背きてかの父の王に向かひてさらに異計を生 P--366 ずることを恐れ、情地をして安からざらしむることを致すことを明かす。ゆゑ に「惶懼」と称す。かれすでにわれを捨つ、たれがためにすといふことを知ら ず。心疑ひて決せず。つひにすなはち口に問ひてこれを審らかにす。ゆゑに 「耆婆汝不為我」といふ。「耆婆」といふはこれ王の弟なり。古人いはく、「家 に衰禍あるときは、親にあらざれば救はず」と。なんぢすでにこれわが弟なれ ば、あに月光に同ぜんや。六に「耆婆白言」より下「愼莫害母」に至るこのか たは、二臣(月光・耆婆)かさねて諫むることを明かす。これ耆婆実をもつて大 王に答ふることを明かす。「もしわれらを得て相となさんと欲せば、願はくは 母を害することなかれ」となり。ここに直諫すること竟りぬ。七に「王聞此 語」より下「止不害母」に至るこのかたは、まさしく闍王諫を受けて母の残命 を放すことを明かす。これ世王すでに耆婆が諫を得をはりて、心に悔恨を生じ、 前の所造を愧ぢて、すなはち二臣に向かひて哀れみを求め命を乞ふ。よりてす なはち母を放して死の難を脱れしめ、手中の剣本の匣に還帰することを明かす。 八に「勅語内官」より下「不令復出」に至るこのかたは、その世王の余瞋母を 禁ずることを明かす。これ世王、臣の諫を受けて母を放すといへども、なほ余 P--367 瞋ありてほかにあらしめず。内官に勅語し深宮に閉置して、さらに出して父の 王とあひ見えしむることなきことを明かす。上来八句の不同ありといへども、 広く禁母の縁を明かしをはりぬ。 【8】 四に厭苦の縁のなかにつきてすなはちその四あり。一には「時韋提希」 より下「憔悴」に至るこのかたは、まさしく夫人子のために幽禁せらるること を明かす。これ夫人死の難を勉るといへども、さらに深宮に閉ぢ在かれて、守 当きはめて牢くして出づることを得るに由なし。ただ念々に憂ひを懐くことの みありて、自然に憔悴することを明かす。傷歎していはく、「禍なるかな今日 の苦、闍王喚びて利刃の中間に結ぎ、また深宮に置く難に遇値ふ」と。  問ひていはく、夫人すでに死を勉れて宮に入ることを得。よろしく訝楽すべ し、なにによりてかかへりてさらに愁憂するや。答へていはく、すなはち三義 の不同あり。一には夫人すでにみづから閉ぢられて、さらに人の食を進めて王 に与ふるなし。王またわが難にあるを聞きてうたたさらに愁憂せん。いますで に食なくして憂ひを加へば、王の身命さだめて久しからざるべきことを明かす。 二には夫人すでに囚難を被る、いづれの時にかさらに如来(釈尊)の面および P--368 もろもろの弟子を見たてまつらんといふことを明かす。三には夫人教を奉けて 禁ぜられて深宮にあり。内官守当して水泄すら通ぜず。旦夕のあひだ、ただ死 路のみを愁ふることを明かす。この三義ありて身心を切逼す。憔悴することな きことを得んや。  二に「遙向耆闍崛山」より下「未挙頭頃」に至るこのかたは、まさしく夫人 禁によりて仏を請じ、意に陳ぶるところあることを明かす。これ夫人すでに囚 禁にありて、自身仏辺に到ることを得るに由なし。ただ単心のみありて、面を 耆闍に向かへ、はるかに世尊を礼したてまつりて、「願はくは仏の慈悲、弟子 が愁憂の意を表知したまへ」といふことを明かす。「如来在昔之時」といふ以 下は、これに二義あり。一には父の王いまだ禁ぜられざる時は、あるいは王お よびわが身親しく仏辺に到るべし、あるいは如来およびもろもろの弟子親しく 王の請を受くべし。しかるにわれおよび王の身ともに囚禁にありて、因縁断絶 し、彼此情乖けることを明かす。二には父の王、禁にありてよりこのかた、し ばしば世尊、阿難を遣はして来りてわれを慰問せしめたまふことを蒙ることを 明かす。いかんが慰問する。父の王の囚禁せらるるを見るをもつて、仏、夫人 P--369 の憂悩することを恐れたまふ。この因縁をもつてのゆゑに慰問せしめたまふ。 「世尊威重無由得見」といふは、これ夫人うちにみづから卑謙して、仏弟子に 帰尊す。「穢質の女身、福因尠薄なり。仏徳は威高し、軽しく触るるに由なし。 願はくは目連等を遣はしてわれとあひ見えしめたまへ」といふことを明かす。  問ひていはく、如来はすなはちこれ化主なり。時宜を失はざるべし。夫人な にをもつてか三たび致請を加へずして、すなはち目連等を喚ぶはなんの意かあ るや。答へていはく、仏徳は尊厳なり。小縁をもつてあへてたやすく請ぜず。 ただ阿難を見て、語を伝へて、往きて世尊にまうさしめんと欲す。仏わが意を 知りたまはば、また阿難をして仏の語を伝へて、われに指授せしめたまはん。 この義をもつてのゆゑに阿難を見んと願ふ。  「作是語已」といふは総じて前の意を説きをはるなり。「悲泣雨涙」といふ は、これ夫人みづからただ罪重し。仏の加哀を請ずるに、敬を致す情深くして 悲涙目に満てり。ただ霊儀を渇仰するをもつて、またますますはるかに礼し、 頂を叩きて&M037529;&M037581;し、しばらくいまだ挙げざることを明かす。三に「爾時世尊」 より下「天華持用供養」に至るこのかたは、まさしく世尊みづから来りて請に P--370 赴くことを明かす。これ世尊耆闍にましますといへども、すでに夫人の心念の 意を知ることを明かす。「勅大目連等従空而来」といふは、これ夫人の請に応 ずることを明かす。「仏従耆山没」といふは、これ夫人宮内の禁約きはめて難 し。仏もし身を現じて来赴したまはば、おそらくは闍世知聞してさらに留難を 生ずることを。この因縁をもつてのゆゑに、すべからくここに没してかしこに 出でたまふべきことを明かす。「時韋提礼已挙頭」といふは、これ夫人敬を致 す時を明かす。「見仏世尊」といふは、これ世尊宮中にすでに出でて、夫人を して頭を挙げてすなはち見しむることを致すことを明かす。「釈迦牟尼仏」と いふは余仏に簡異す。ただ諸仏は名通じ、身相異ならず。いまことさらに釈迦 を標定して疑なからしむ。「身紫金色」といふはその相を顕し定む。「坐百宝 華」といふは余座に簡異す。「目連侍左」等といふは、これさらに余の衆なく して、ただ二僧(目連・阿難)のみあることを明かす。「釈梵護世」といふは、 これ天王衆等、仏世尊隠れて王宮に顕れたまふを見るに、「かならず希奇の法 を説きたまはん、われら天・人、韋提によるがゆゑに未聞の益を聴くことを得 ん」と。おのおの本念に乗じてあまねく空に住臨して、天耳はるかに餐して、 P--371 華を雨らして供養することを明かす。また「釈」といふは、すなはちこれ天帝 なり。「梵」といふは、すなはちこれ色界の梵王等なり。「護世」といふは、 すなはちこれ四天王なり。「諸天」といふは、すなはちこれ色・欲界等の天衆 なり。すでに天王の仏辺に来り向かへるを見て、かのもろもろの天衆また王に 従ひて来りて、法を聞きて供養す。四に「時韋提希見世尊」より下「与提婆共 為眷属」に至るこのかたは、まさしく夫人頭を挙げて仏を見たてまつり、口言 に傷歎し、怨結の情深きことを明かす。「自絶瓔珞」といふは、これ夫人身の 荘りの瓔珞なほ愛していまだ除かず、たちまちに如来を見たてまつりて羞ぢ慚 ぢてみづから絶つことを明かす。  問ひていはく、いかんぞみづから絶つや。答へていはく、夫人はすなはちこ れ貴のなかの貴、尊のなかの尊なり。身の四威儀に多くの人供給し、着たると ころの衣服みな傍人を使ふ。いますでに仏を見たてまつりて恥ぢ愧づる情深く して、鉤帯によらず、たちまちにみづから掣き却く。ゆゑに自絶といふ。  「挙身投地」といふは、これ夫人内心感結して怨苦堪へがたし。ここをもつ て坐より身を踊らして立し、立せるより身を踊らして地に投ぐることを明かす。 P--372 これすなはち歎恨処深くして、さらに礼拝の威儀を事とせず。「号泣向仏」と いふは、これ夫人仏前に婉転し、悶絶号哭することを明かす。「白仏」といふ 以下は、これ夫人婉転涕哭することやや久しくして、少しき惺めてはじめて身 の威儀を正しくして、合掌して仏にまうすことを明かす。「われ一生よりこの かた、いまだかつてその大罪を造らず。いぶかし、宿業の因縁、なんの殃咎あ りてかこの児とともに母子たる」と。これ夫人すでにみづから障深くして宿因 を識らず。いま児に害を被る。これ横に来れりと謂ひて、「願はくは仏の慈悲、 われに径路を示したまへ」といふことを明かす。「世尊復有何等因縁」といふ 以下は、これ夫人仏に向かひて陳訴す。「われはこれ凡夫なり。罪惑尽きざれ ば、この悪報あり。この事甘心す。世尊は曠劫に道を行じて、正習ともに亡 じたまへり。衆智朗然として果円かなるを仏と号けたてまつる。いぶかし、な んの因縁ありてかすなはち提婆とともに眷属となりたまふ」といふことを明か す。この意に二あり。一には夫人怨を子に致すことを明かす。たちまちに父母 において狂れて逆心を起せばなり。二にはまた恨むらくは提婆、わが闍世を教 へてこの悪計を造らしむ。もし提婆によらずは、わが児つひにこの意なからん P--373 といふことを明かす。この因縁のためのゆゑにこの問を致す。また夫人、仏に 問ひて「与提婆眷属」といふはすなはちその二あり。一には在家の眷属、二に は出家の眷属なり。在家といふは、仏の伯叔にその四人あり。仏はすなはちこ れ白浄王(浄飯王)の児、金毘は白飯王の児、提婆は斛飯王の児、釈魔男はこ れ甘露飯王の児なり。これを在家の外眷属と名づく。出家の眷属といふは、仏 のために弟子となる、ゆゑに内眷属と名づく。上来四句の不同ありといへども、 広く厭苦の縁を明かしをはりぬ。 【9】 五に欣浄の縁のなかにつきて、すなはちその八あり。一に「唯願世尊為 我広説」より下「濁悪世也」に至るこのかたは、まさしく夫人通じて所求を請 じ、別して苦界を標することを明かす。これ夫人自身の苦に遇ひて、世の非常 を覚るに、六道同じくしかなり。安心の地あることなし。ここに仏、浄土の無 生なるを説きたまふを聞きて、穢身を捨ててかの無為の楽を証せんと願ずるこ とを明かす。二に「此濁悪処」より下「不見悪人」に至るこのかたは、まさし く夫人所厭の境を挙出することを明かす。これ閻浮はすべて悪にして、いまだ 一処として貪ずべきことあらず。ただ幻惑の愚夫なるをもつて、この長苦を飲 P--374 むといふことを明かす。「此濁悪処」といふはまさしく苦界を明かす。また器 世間を明かす。またこれ衆生の依報の処なり。また衆生の所依の処と名づく。 「地獄」等といふ以下は、三品の悪果もつとも重ければなり。「盈満」といふ は、この三の苦聚はただ独り閻浮を指すのみにあらず、娑婆もまたみなあまね くあり。ゆゑに盈満といふ。「多不善聚」といふは、これ三界・六道不同にし て種類恒沙なるは、心の差別に随ふことを明かす。経にのたまはく、「業よく 識を荘り、世々処々におのおの趣きて、縁に随ひて果報を受け、対面すれども あひ知らず」と。「願我未来」といふ以下は、これ夫人真心徹到して苦の娑婆 を厭ひ、楽の無為を欣ひて永く常楽に帰することを明かす。ただ無為の境、軽 爾としてすなはち階ふべからず。苦悩の娑婆、輒然として離るることを得るに 由なし。金剛の志を発すにあらざるよりは、永く生死の元を絶たんや。もし親 しく慈尊(釈尊)に従はずは、なんぞよくこの長歎を勉れん。しかして「願我 未来不聞悪声悪人」とは、これ闍王・調達(提婆達多)がごとき、父を殺し僧 を破するもの、および悪声等、願はくはまた聞かず、見ざらんといふことを明 かす。ただ闍王はすでにこれ親生の子なるも、上父母において殺心を起す。い P--375 かにいはんや疎き人にしてあひ害せざらんや。このゆゑに夫人親疎を簡ばず、 総じてみなたちまちに捨つ。三に「今向世尊」より下「懺悔」に至るこのかた は、まさしく夫人浄土の妙処は善にあらずは生ぜず、おそらくは余&M079110;ありて障 へて往くことを得ざることを。ここをもつて求哀してさらにすべからく懺悔す べきことを明かす。四に「唯願仏日」より下「清浄業処」に至るこのかたは、 まさしく夫人通じて去行を請ずることを明かす。これ夫人上にはすなはち通じ て生処を請じ、いままた通じて得生の行を請ずることを明かす。「仏日」とい ふは法・喩ならべて標す。たとへば日出でて衆闇ことごとく除こるがごとく、 仏智光を輝かして、無明の夜日のごとくに朗らかなり。「教我観於清浄」とい ふ以下は、まさしくすでによく穢を厭ひ浄を欣ふ。いかんが安心注想して清浄 の処に生ずることを得るといふことを明かす。五に「爾時世尊放眉間光」より 下「令韋提見」に至るこのかたは、まさしく世尊広く浄土を現じて前の通請に 酬へたまふことを明かす。これ世尊、夫人の広く浄土を求むることを見たまへ るをもつて、如来すなはち眉間の光を放ちて十方国を照らし、光をもつて国を 摂し、頂上に還来して化して金台となるに、須弥山のごとし。「如」の言は似 P--376 なり、須弥山に似たり。この山腰は細く、上は闊し。あらゆる仏国ならびにな かにおいて現じ、種々不同にして荘厳異なることあり。仏の神力のゆゑに了々 として分明なり。韋提に加備してことごとくみな見ることを得しむることを明 かす。  問ひていはく、韋提上には「わがために広く無憂の処を説きたまへ」と請ず。 仏いまなんがゆゑぞために広く説きたまはずして、すなはちために金台にあま ねく現ずるはなんの意かあるや。答へていはく、これ如来の意密を彰す。しか るに韋提、言を発して請を致すは、すなはちこれ広く浄土の門を開けとなり。 もしこれがために総じて説かば、おそらくはかれ見ずして心なほ惑ひを致すこ とを。ここをもつて一々に顕現してかの眼前に対して、かの所須に信せて心に 随ひみづから選ばしむ。  六に「時韋提白仏」より下「皆有光明」に至るこのかたは、まさしく夫人総 じて所現を領して、仏恩を感荷することを明かす。これ夫人総じて十方の仏国 を見るに、ならびにことごとく精華なれども、極楽の荘厳に比せんと欲するに、 まつたく比況にあらざることを明かす。ゆゑに「我今楽生安楽国」といふ。 P--377  問ひていはく、十方の諸仏は断惑殊なることなく、行畢り果円かなること、 また二なかるべし。なにをもつてか一種の浄土にすなはちこの優劣あるや。答 へていはく、仏はこれ法王、神通自在なり。優と劣と凡惑の知るところにあら ず。隠顕、機に随ひて化益を存ずることを望む。あるいはことさらにかの優と なすことを隠して、独り西方を顕して勝となすべし。  七に「我今楽生弥陀」より以下は、まさしく夫人別して所求を選ぶことを 明かす。これ弥陀の本国は四十八願よりす。願々みな増上の勝因を発し、因に よりて勝行を起し、行によりて勝果を感じ、果によりて勝報を感成し、報に よりて極楽を感成し、楽によりて悲化を顕通し、悲化によりて智慧の門を顕開 す。しかるに悲心無尽なれば、智もまた無窮なり。悲智双行してすなはち広く 甘露を開く。これによりて法潤あまねく群生を摂す。諸余の経典に勧むる処い よいよ多し。衆聖心を斉しくしてみな同じく指讃す。この因縁ありて、如来ひ そかに夫人を遣はして、別して選ばしめたまふことを致すことを明かす。八に 「唯願世尊」より以下は、まさしく夫人別行を請求することを明かす。これ韋 提すでに得生の処を選びて、還りて別行を修して、おのれを励まし心を注めて、 P--378 かならず往益を望むことを明かす。「教我思惟」といふは、すなはちこれ定の 前方便、かの国の依正二報・四種の荘厳を思想し憶念するなり。「教我正受」 といふは、これ前の思想漸々に微細にして、覚想ともに亡ずるによりて、ただ 定心のみありて前境と合するを名づけて正受となすことを明かす。このなか に略してすでに料簡す。下の観門に至りてさらにまさに広く弁ずべし、知るべ し。上来八句の不同ありといへども、広く欣浄の縁を明かしをはりぬ。 【10】 六に散善顕行縁のなかにつきてすなはちその五あり。一に「爾時世尊即 便微笑」より下「成那含」に至るこのかたは、まさしく光、父の王を益するこ とを明かす。これ如来夫人の極楽に生ぜんと願じ、さらに得生の行を請ずるを 見たまふに、仏の本心に称ひ、また弥陀の願意を顕すをもつて、この二請によ りて広く浄土の門を開けば、ただ韋提のみ去くことを得るにあらず、有識これ を聞きてみな往く。この益あるがゆゑに、ゆゑに如来微笑したまふことを明か す。「有五色光従仏口出」といふは、これ一切諸仏の心口の常の威儀、法爾と しておほよそ出すところの光かならず利益あることを明かす。「一一光照頻婆 頂」といふは、まさしく口の光、余方を照らさずして、ただ王頂を照らすこと P--379 を明かす。しかるに仏の光、身の出処に随ひてかならずみな益あり。仏の足の 下より光を放てば、すなはち地獄道を照益す。もし光膝より出づれば、畜生道 を照益す。もし光陰蔵より出づれば、鬼神道を照益す。もし光臍より出づれ ば、修羅道を照益す。光心より出づれば、人道を照益す。もし光口より出づれ ば、二乗の人を照益す。もし光眉間より出づれば、大乗の人を照益す。いまこ の光口より出でてただちに王頂を照らすは、すなはちその小果を授くることを 明かす。もし光眉間より出でてすなはち仏頂より入るは、すなはち菩薩に記を 授くるなり。かくのごとき義は広多にして無量なり、つぶさに述ぶべからず。 「爾時大王雖在幽閉」といふ以下は、まさしく父の王、光の頂を照らすことを 蒙りて心眼開くることを得て、障隔多しといへども自然にあひ見る。これす なはち光によりて仏を見たてまつるは、意の期するところにあらず、敬を致し 帰依するにすなはち第三の果を超証することを明かす。二に「爾時世尊」より 下「広説衆譬」に至るこのかたは、まさしく前に夫人別して所求の行を選ぶに 答ふることを明かす。これ如来上の耆闍に没して王宮に出でをはるよりこの文 に至るまで、世尊黙然として坐して、総じていまだ言説したまはざることを明 P--380 かす。ただ中間の夫人の懺悔・請問・放光・現国等は、すなはちこれ阿難、仏 に従ひて王宮にしてこの因縁を見て、事了りて山に還り、伝へて耆闍の大衆に 向かひて上のごとき事を説くに、はじめてこの文あり。またこれ時に仏語なき にあらず、知るべし。「爾時世尊告韋提」といふ以下は、まさしく告命許説を 明かす。「阿弥陀仏不遠」といふは、まさしく境を標してもつて心を住むるこ とを明かす。すなはちその三あり。一には分斉遠からず。これより十万億の刹 を超過して、すなはちこれ弥陀の国なることを明かす。二には道里はるかなり といへども、去く時一念にすなはち到ることを明かす。三には韋提等および未 来有縁の衆生、心を注めて観念すれば定境相応して、行人自然につねに見る ことを明かす。この三義あるがゆゑに不遠といふ。「汝当繋念」といふ以下は、 まさしく凡惑障深くして、心多く散動す。もしたちまちに攀縁を捨てずは、浄 境現ずることを得るに由なきことを明かす。これすなはちまさしく安心住行 を教ふ。もしこの法によるを名づけて「浄業成ず」となす。「我今為汝」とい ふ以下は、これ機縁いまだ具せず、ひとへに定門を説くべからず、仏さらに機 を観じて、みづから三福の行を開きたまふことを明かす。三に「亦令未来世」 P--381 より下「極楽国土」に至るこのかたは、まさしく機を挙げて修を勧め、益を得 ることを明かす。これ夫人の請ずるところ、利益いよいよ深くして、未来に及 ぶまで回心すればみな到ることを明かす。四に「欲生彼国者」より下「名為浄 業」に至るこのかたは、まさしく勧めて三福の行を修せしむることを明かす。 これ一切衆生の機に二種あり。一には定、二には散なり。もし定行によれば、 すなはち生を摂するに尽きず。ここをもつて如来(釈尊)方便して三福を顕開 して、もつて散動の根機に応じたまふことを明かす。「欲生彼国」といふは所 帰を標指す。「当修三福」といふは総じて行門を標す。いかんが三と名づくる。 「一者孝養父母」、すなはちその四あり。一に「孝養父母」といふは、これ一 切の凡夫みな縁によりて生ずることを明かす。いかんが縁による。あるいは化 生あり、あるいは湿生あり、あるいは卵生あり、あるいは胎生あり。この四生 のなかにおのおのにまた四生あり。経に広く説きたまふがごとし。ただこれあ ひよりて生ずればすなはち父母あり。すでに父母あればすなはち大恩あり。も し父なくは能生の因すなはち闕け、もし母なくは所生の縁すなはち乖きなん。 もし二人ともになくはすなはち託生の地を失はん。かならずすべからく父母の P--382 縁具して、まさに受身の処あるべし。すでに身を受けんと欲するに、みづから の業識をもつて内因となし、父母の精血をもつて外縁となして、因縁和合する がゆゑにこの身あり。この義をもつてのゆゑに父母の恩重し。母懐胎しをはり て十月を経るまで、行住坐臥につねに苦悩を生ず。また産の時の死の難を憂 ふ。もし生じをはりぬれば、三年を経るまでつねに屎に眠り尿に臥す。床被・ 衣服みなまた不浄なり。その長大に及びて婦を愛し児を親しみて、父母の処に おいてかへりて憎疾を生じ、恩孝を行ぜざるものはすなはち畜生と異なること なし。また父母は世間の福田の極みなり。仏はすなはちこれ出世の福田の極み なり。しかるに仏在世の時、時年飢倹せるに遇値ひて、人みな餓死して白骨 縦横なり。もろもろの比丘等乞食するに得がたし。時に世尊、比丘等の去りぬ る後を待ちて、独りみづから城に入りて乞食したまふ。旦より中に至るまで門 門に喚び乞ひたまへども、食を与ふるものなし。仏また鉢を空しくして帰りた まふ。明日また去きて、また得たまはず。後の日また去きたまふに、また得た まはず。たちまちに一の比丘ありて、道に逢ひて仏を見たてまつるに、顔色常 よりも異にして飢相ましますに似たり。すなはち仏に問ひたてまつりてまうさ P--383 く、「世尊いますでに食しをはりたまへりや」と。仏のたまはく、「比丘、わ れ三日を経てよりこのかた、乞食するに一匙をも得ず。われいま飢虚にして力 なし、よくなんぢとともに語らんや」と。比丘仏語を聞きをはりて、悲涙して みづから勝ふることあたはず。すなはちみづから念言すらく、「仏はこれ無上 の福田、衆生の覆護なり。われこの三衣売却して、一鉢の飯を買ひ取りて仏に 奉上せん、いままさしくこれ時なり」と。この念をなしをはりてすなはち一鉢 の飯を買ひ得て、すみやかにもつて仏にたてまつる。仏知ろしめして、ことさ らに問ひてのたまはく、「比丘、時年飢倹にして人みな餓死す。なんぢいまい づれの処にしてかこの一鉢の純色の飯を得て来れる」と。比丘前のごとくつぶ さに世尊にまうす。仏またのたまはく、「比丘の三衣はすなはちこれ三世の諸 仏の幢相なり。この衣因縁きはめて尊く、きはめて重く、きはめて恩あり。な んぢいまこの飯を易へ得てわれに与ふることは、大きになんぢが好心を領すれ ども、われこの飯を消せず」と。比丘かさねて仏にまうしてまうさく、「仏は これ三界の福田、聖のなかの極なるに、なほ消せずといはば、仏を除きて以外 はたれかよく消せんや」と。仏のたまはく、「比丘、なんぢ父母ありやいなや」 P--384 と。答へてまうさく、「あり」と。「なんぢもつて父母に供養し去れ」と。比 丘まうさく、「仏なほ消せずとのたまふ、わが父母あによく消せんや」と。仏 のたまはく、「消することを得。なにをもつてのゆゑに。父母よくなんぢが身 を生ぜり。なんぢにおいて大重恩あり。これがために消することを得」と。仏 また比丘に問ひたまはく、「なんぢが父母、仏を信ずる心ありやいなや」と。 比丘まうさく、「すべて信心なし」と。仏のたまはく、「いま信ずる心あるべ し。なんぢの飯を与ふるを見て大きに歓喜を生じて、これによりてすなはち信 心を発さん。先づ教へて三帰依を受けしめよ。すなはちよくこの食を消せん」 と。時に比丘すでに仏の教を受けて愍仰して去りぬ。この義をもつてのゆゑに、 大きにすべからく父母に孝養すべし。また仏母摩耶、仏を生じて七日を経をは りてすなはち死して、&M010305;利天に生ず。仏後に成道したまひて、四月十五日に至 りてすなはち&M010305;利天に向かひ、一夏母のために説法したまふ。十月懐胎の恩を 報ぜんがためなり。仏すらなほみづから恩を収めて父母に孝養したまふ、いか にいはんや凡夫にして孝養せざらんや。ゆゑに知りぬ、父母の恩深くしてきは めて重し。「奉事師長」とは、これ礼節を教示して学識、徳を成じ、因行虧く P--385 ることなくすなはち成仏に至るは、これなほ師の善友力なり。この大恩もつと もすべからく敬重すべきことを明かす。しかるに父母および師長は名づけて 敬上の行となす。「慈心不殺」といふは、これ一切衆生みな命をもつて本とな すことを明かす。もし悪縁を見て、怖れ走り蔵れ避くるは、ただ命を護らんが ためなり。『経』(涅槃経・意)にのたまはく、「一切のもろもろの衆生、寿命を 愛せざるはなし。殺すことなかれ、杖を行ずることなかれ。おのれを怒るに喩 しをなすべし」と。すなはち証となす。「修十善業」といふは、これ十悪のな かに殺業もつとも悪なることを明かす。ゆゑにこれを列ねて初めに在く。十善 のなかには長命もつとも善なり。ゆゑにこれをもつて相対す。以下の九悪九 善は、下の九品のなかに至りて、次に広く述ぶべし。これ世善を明かす。また 慈下の行と名づく。二に「受持三帰」といふは、これ世善軽微にして感報具な らず。戒徳巍々としてよく菩提の果を感ずることを明かす。ただ衆生の帰信浅 きより深きに至る。先づ三帰を受けしめ、後に衆戒を教ふ。「具足衆戒」とい ふは、しかるに戒に多種あり。あるいは三帰戒、あるいは五戒・八戒・十善戒・ 二百五十戒・五百戒・沙弥戒、あるいは菩薩の三聚戒、十無尽戒等なり。ゆゑ P--386 に具足衆戒と名づく。また一々の戒品のなかにまた少分戒・多分戒・全分戒あ り。「不犯威儀」といふは、これ身口意業、行住坐臥によく一切の戒のために 方便の威儀をなすことを明かす。もしは軽重粗細みなよく護持して、犯せば すなはち悔過す。ゆゑに不犯威儀といふ。これを戒善と名づく。三に「発菩提 心」といふは、これ衆生の欣心大に趣く。浅く小因を発すべからず。広く弘心 を発すにあらざるよりは、なんぞよく菩提とあひ会することを得んといふこと を明かす。ただ願はくはわが身、身は虚空に同じく心は法界に斉しく、衆生の 性を尽さん。われ身業をもつて恭敬し供養し礼拝し、来去を迎送して運度して 尽さしめん。またわれ口業をもつて讃歎し説法して、みなわが化を受けて、言 の下に道を得るもの、尽さしめん。またわれ意業をもつて入定観察し、身は 法界に分身して機に応じて度して、一として尽さざるはなからん。われこの願 を発す。運々増長してなほ虚空のごとく、処として遍せざるはなく、行流無尽 にして後際を徹窮し、身に疲倦なく心に厭足なからん。また「菩提」といふは すなはちこれ仏果の名なり。また「心」といふはすなはちこれ衆生の能求の心 なり。ゆゑに発菩提心といふ。四に「深信因果」といふはすなはちその二あり。 P--387 一には世間の苦楽の因果を明かす。もし苦の因を作ればすなはち苦の果を感じ、 もし楽の因を作ればすなはち楽の果を感ず。印をもつて泥に印するに、印壊れ て文成ずるがごとし。疑ふことを得ず。「読誦大乗」といふは、これ経教はこ れを喩ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す。も し智慧の眼開けぬれば、すなはちよく苦を厭ひて涅槃等を欣楽することを明か す。「勧進行者」といふは、これ苦法は毒のごとく、悪法は刀のごとし。三有 に流転して衆生を損害す。いますでに善は明鏡のごとく、法は甘露のごとし。 鏡はすなはち正道を照らしてもつて真に帰し、甘露はすなはち法雨を注ぎて竭 くることなく、含霊をして潤を受け、等しく法流に会せしめんと欲することを 明かす。この因縁のためのゆゑにすべからくあひ勧むべし。「如此三事」とい ふ以下は、総じて上の行を結成す。五に「仏告韋提」より下「正因」に至るこ のかたは、それ聖を引きて凡を励ますことを明かす。ただよく決定して心を注 むれば、かならず往くこと疑なし。上来五句の不同ありといへども、広く散善 顕行縁を明かしをはりぬ。 【11】 七に定善示観縁のなかにつきてすなはちその七あり。一に「仏告阿難」 P--388 より下「清浄業」に至るこのかたは、まさしく勅聴許説を明かす。これ韋提 前に極楽に生ぜんと願ずることを請じ、また得生の行を請ずるに、如来すでに 許したまへり。いまこの文につきてまさしく正受の方便を開顕せんと欲するこ とを明かす。これすなはち因縁の極要にして利益する処深し。曠劫にも聞くこ と希なり。いまはじめて説く。この義のためのゆゑに、如来総じて二人に命ぜ しむることを致す。「告阿難」といふは、「われいま浄土の門を開説せんと欲 す。なんぢよく伝持して遺失せしむることなかれ」となり。「告韋提」といふ は、「なんぢはこれ請法の人なり。われいま説かんと欲す。なんぢよく審らか に聴き、思量諦受して、錯失せしむることなかれ」となり。「為未来世一切衆 生」といふは、ただ如来化に臨みたまふことは、ひとへに常没の衆生のためな り。いますでに等しく慈雲を布きて、あまねく来潤を沾さんと望欲す。「為煩 悩賊害」といふは、これ凡夫障重く、妄愛迷ひ深くして、三悪の火坑闇くして 人の足下にあることを謂はず。縁に随ひて行を起して、進道の資糧となさんと 擬するも、なんぞそれ六賊知聞し、競ひ来りて侵し奪ふ。いますでにこの法財 を失ふ、なんぞ憂苦なきことを得んやといふことを明かす。「説清浄業」とい P--389 ふは、これ如来衆生の罪を見たまふをもつてのゆゑに、ために懺悔の方を説き、 相続して断除せしめ、畢竟じて永く清浄ならしめんと欲することを明かす。 また「清浄」といふは、下の観門によりて専心に念仏し、想を西方に注むれ ば、念々に罪除こるがゆゑに清浄なり。二に「善哉」より以下は、まさしく 夫人の問聖意に当れることを明かす。三に「阿難汝当受持」より下「宣説仏 語」に至るこのかたは、まさしく勧持と勧説とを明かす。この法深要なり、よ くすべからく流布すべし。これ如来前にはすなはち総じて告げて安心聴受せし む。この文はすなはち別して阿難に勅して、受持して忘るることなく、広く多 人の処にして、ために説きて流行せしむることを明かす。「仏語」といふは、 これ如来曠劫にすでに口の過を除きたまひて、言説あるに随ひて一切聞くもの の自然に信を生ずることを明かす。四に「如来今者」より下「得無生忍」に至 るこのかたは、まさしく勧修得益の相を明かす。これ如来、夫人および未来等 のために観の方便を顕して、想を西方に注めしめて、娑婆を捨厭し極楽を貪欣 せしめんと欲することを明かす。「以仏力故」といふ以下は、これ衆生の業障 目に触るるに生盲なれば、掌を指すに遠しと謂ひ、他方竹&M026333;を隔つるにすなは P--390 ちこれを千里に踰ゆとす。あにいはんや凡夫分外の諸仏の境内、心に&M041467;はんや。 聖力の冥に加するにあらざるよりは、かの国なにによりてか覩ることを得んと いふことを明かす。「如執明鏡自見面像」といふ以下は、これ夫人および衆 生等入観して心を住め、神を凝して捨てざれば、心境相応してことごとくみ な顕現することを明かす。境現ずる時に当りて、鏡のなかに物を見るに異なる ことなきがごとし。「心歓喜故得忍」といふは、これ阿弥陀仏国の清浄の光明、 たちまちに眼前に現ず、なんぞ踊躍に勝へん。この喜によるがゆゑに、すなは ち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づけ、また悟忍と名づけ、また 信忍と名づく。これすなはちはるかに談じていまだ得処を標せず、夫人等をし て心にこの益を&M010661;はしめんと欲す。勇猛専精にして心に〔仏を〕想ひて見る時、 まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信のなかの忍にして、解行以上の忍には あらず。五に「仏告韋提」より下「令汝得見」に至るこのかたは、まさしく夫 人はこれ凡にして聖にあらず。聖にあらざるによるがゆゑに、仰ぎておもんみ れば聖力冥に加して、かの国はるかなりといへども覩ることを得ることを明 かす。これ如来、衆生惑ひを置きて、夫人はこれ聖にして凡にあらずといひ P--391 て疑を起すによるがゆゑにすなはちみづから怯弱を生じ、しかるに韋提は現に これ菩薩にしてかりに凡身を示す、われら罪人比及するに由なしといふことを 恐る。この疑を断ぜんがためのゆゑに「汝是凡夫」とのたまふことを明かす。 「心想羸劣」といふは、これ凡なるによるがゆゑにかつて大志なし。「未得天 眼」といふは、これ夫人肉眼の見るところの遠近は言をなすに足らず、いはん や浄土いよいよはるかなり、いかんぞ見るべきといふことを明かす。「諸仏如 来有異方便」といふ以下は、これもし心によりて見るところの国土の荘厳は、 なんぢ凡のよく普悉するにあらずと、功を仏に帰することを明かす。六に「時 韋提白仏」より下「見彼国土」に至るこのかたは、それ夫人かさねて前の恩を 牒し、後の問を生起せんと欲する意を明かす。これ夫人仏意を領解するに、上 の光台の所見のごときは、これすでによく向に見たりと謂ひき、世尊開示した まふに、はじめてこれ仏の方便の恩なりと知る。もししからば、仏いまに世に ましませば、衆生念を蒙りて西方を見ることを得しむべし。仏もし涅槃したま ひて加備を蒙らざるものは、いかんが見ることを得んやといふことを明かす。 七に「若仏滅後」より下「極楽世界」に至るこのかたは、まさしく夫人の悲心 P--392 物のためにすること、おのが往生に同じく、永く娑婆を逝きて、長く安楽に遊 ばしめんといふことを明かす。これ如来、心に期したまふ運度は、後際を徹窮 していまだ休まず。ただ世代り時移りて、群情浅促なるをもつてのゆゑに、如 来をして永生の寿を減じ、長劫を泯じてもつて人年に類し、驕慢を摂せんとし てもつて無常を示し、剛強を化せんとして同じく磨滅に帰せしむることを明か す。ゆゑに若仏滅後といふ。「諸衆生」といふは、これ如来化を息めたまはば、 衆生帰依するに処なし。蠢々周&M011102;して、縦横に六道に走ることを明かす。 「濁悪不善」といふは、これ五濁を明かす。一には劫濁、二には衆生濁、三 には見濁、四には煩悩濁、五には命濁なり。「劫濁」といふは、しかるに劫は 実にこれ濁にあらず、劫減ずる時に当りて諸悪加増す。「衆生濁」といふは、 劫もしはじめて成ずる時は衆生純善なり、劫もし末なる時は衆生の十悪いよ いよ盛りなり。「見濁」といふは、自身の衆悪は総じて変じて善となし、他の 上に非なきをば見て是ならずとなす。「煩悩濁」といふは、当今の劫末の衆生 悪性にして親しみがたし。六根に随対して貪瞋競ひ起る。「命濁」といふは、 前の見・悩の二濁によりて多く殺害を行じて、慈しみ恩養することなし。すで P--393 に断命の苦因を行じ、長年の果を受けんと欲するも、なにによりてか得べき。 しかるに濁は体これ善にあらず。いま略して五濁の義を指しをはりぬ。「五苦 所逼」といふは、八苦のなかに生苦・老苦・病苦・死苦・愛別苦を取りて、こ れを五苦と名づく。さらに三苦を加ふればすなはち八苦となる。一には五陰盛 苦、二には求不得苦、三には怨憎会苦、総じて八苦と名づく。この五濁・五 苦・八苦等は六道に通じて受く、いまだなきものあらず。つねにこれを逼悩す。 もしこの苦を受けざるものは、すなはち凡数の摂にあらず。「云何当見」とい ふ以下は、これ夫人苦機を挙出して、これらの罪業きはめて深くして、また仏 を見たてまつらず、加備を蒙らずは、いかんがかの国を見るべきといふことを 明かす。上来七句の不同ありといへども、広く定善示観縁を明かしをはりぬ。 【12】 初めには証信序を明かし、次には化前序を明かし、後には発起序を明か す。上来三序の不同ありといへども、総じて序分を明かしをはりぬ。 観経序分義 巻第二 P--394 #2定善義    観経正宗分定善義 巻第三                            沙門善導集記 【1】 これより以下は、次に正宗を弁ず。すなはちその十六あり。また一々の 観のなかにつきて、文に対して料簡す。労はしくあらかじめ顕さず。いま正 宗を定め立すること、諸師と同じからず。いまただちにもつて法につきて定め ば、日観の初めの句より下下品下生に至るこのかたは、これその正宗なり。 日観より以上は多義の不同ありといへども、この文勢を看るに、ただこれ由序 なり、知るべし。 【2】 初めの日観のなかにつきて、先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すなはち その五あり。一に「仏告韋提」より下「想於西方」に至るこのかたは、まさし く総じて告げ、総じて勧むることを明かす。これは韋提前に弥陀仏国を請じ、 また正受の行を請ずるに、如来(釈尊)時に当りてすなはち許してために説き たまふことを明かす。ただ機縁いまだ備はらざれば、行を顕すこといまだあま P--395 ねからざるをもつて、さらに三福の因を開きて、もつて未聞の益をなし、また 如来かさねて告げて流通を勧発したまふ。この法聞きがたければ、広く開悟せ しむ。「仏告韋提汝及衆生」といふは、これ告勧を明かす。もし等しく塵労を 出でて仏国に生ずることを求めんと欲せば、よろしくすべからく意を励ますべ し。「応当専心」といふ以下は、これ衆生散動して識、猿猴よりも劇しく、心 六塵に遍してしばらくも息むに由なきことを明かす。ただおもんみれば境縁一 にあらず、目に触れて貪を起し想を乱す。心を三昧に安んずること、なんぞ得 べけん。縁を捨て静に託するにあらざるよりは、相続して心を注めんや。ただ ちに西方を指すは、余の九域を簡ぶ。ここをもつて身を一にし、心を一にし、 回向を一にし、処を一にし、境界を一にし、相続を一にし、帰依を一にし、正 念を一にす。これを想成就して正受を得と名づく。此世・後生、心に随ひて解 脱す。二に「云何作想」より下「皆見日没」に至るこのかたは、まさしく所観 の事を牒することを明かす。これもろもろの衆生等久しく生死に流れて、安心 を解らず。西方を指すといへども、いかんが作意するといふことを知らず。ゆ ゑに如来ために反問を生じ疑執を遣除せしめ、もつて正念の方を示したまふこ P--396 とを明かす。「凡作想」といふは、これ総じて前の意を牒して、後の入観の方 便を顕すことを明かす。「一切衆生」といふは、総じて得生の類を挙ぐ。「自 非生盲」といふ以下は、これ機の堪と不堪とを簡ぶことを明かす。「生盲」と いふは、母胎のなかより出でて、眼すなはち物を見ざるものを名づけて生盲と いふ。この人には教へて日観をなさしむることを得ず。日輪の光相を識らざる によるがゆゑなり。生盲を除きて以外、縁に遇ひて患ふるものには教へて日観 をなさしむるに、ことごとく成就することを得。いまだ眼を患へざる時、その 日輪の光明等の相を識るによりて、いま目を患ふといへども、ただよく日輪等 の相を取らしめて、正念に堅持して時節を限らざれば、かならず成就すること を得。  問ひていはく、韋提上の請には極楽の境を見んと願ず。如来の許説したまふ に及至りて、すなはち先づ教へて心を住めて日を観ぜしむるは、なんの意かあ るや。答へていはく、これに三の意あり。一には衆生をして境を識り心を住め しめんと欲して、方を指すことあることあり。冬夏の両時を取らず、ただ春秋 の二際を取る。その日正東より出でて直西に没す。弥陀仏国は日没の処に当り P--397 て、直西十万億の刹を超過す。すなはちこれなり。二には衆生をして自の業障 に軽重あることを識知せしめんと欲す。いかんが知ることを得る。教へて心 を住めて日を観ぜしむるによる。はじめて心を住めんと欲する時、教へて跏趺 正坐せしむ。右の脚、左の&M029524;の上に着けてほかと斉しくし、左の足、右の&M029524;の 上に安きてほかと斉しくし、左の手、右の手の上に安きて、身をして正直なら しめ、口を合して歯はあひ近づくことなかれ。舌は上の&M003947;を柱へよ。咽喉およ び鼻中の気道をして宣通せしめんがためのゆゑなり。また身の四大の内外とも に空にして、すべて一物もなしと観ぜしめよ。身の地大の皮・肉・筋・骨等、 心に想へ。西方に散向して、西方の際を尽すに、乃至一塵の相を見ずと。また 想へ。身の水大の血・汗・津・涙等、心に想へ。北方に散向して、北方の際を 尽すに、乃至一塵の相を見ずと。また想へ。身の風大東方に散向して、東方の 際を尽すに、乃至一塵の相を見ずと。また想へ。身の火大南方に散向して、南 方の際を尽すに、乃至一塵の相を見ずと。また想へ。身の空大すなはち十方の 虚空と一合して、乃至一塵不空の相を見ずと。また想へ。身の五大みな空にし て、ただ識大のみありて湛然凝住す、なほ円鏡のごとく、内外明照にして朗 P--398 然として清浄なりと。この想をなす時、乱想除こることを得て、心やうやく凝 定す。しかして後、徐々として心を転じて、あきらかに日を観ず。その利根の ものは一坐にしてすなはち明相現前するを見る。境の現ずる時に当りて、ある いは銭の大きさのごとく、あるいは鏡面の大きさのごとし。この明の上におい てすなはちみづから業障軽重の相を見る。一には黒障、なほ黒雲の日を障ふ るがごとし。二には黄障、また黄雲の日を障ふるがごとし。三には白障、白 雲の日を障ふるがごとし。この日なほ雲の障ふるがごとくなるがゆゑに、朗然 として顕照することを得ず。衆生の業障もまたかくのごとし。浄心の境を障蔽 して、心をして明照ならしむることあたはず。行者もしこの相を見ば、すな はちすべからく道場を厳飾し、仏像を安置し、清浄洗浴し、浄衣を着し、また 名香を焼きて諸仏・一切賢聖に表白し、仏の形像に向かひて、現在一生に無 始よりこのかた、すなはち身口意業に造るところの十悪・五逆・四重・謗法・ 闡提等の罪を懺悔すべし。きはめてすべからく悲涕して涙を雨らし、深く慚愧 を生じて、うち心髄に徹り、骨を切りてみづから責むべし。懺悔しをはりて、 還りて前の坐法のごとく安心して境を取れ。境もし現ずる時は、前のごとき三 P--399 障ことごとく除こりて、所観の浄境朗然として明浄なり。これを頓に障を滅 すと名づく。あるいは一懺してすなはち尽すものを利根の人と名づく。あるい は一懺してただ黒障を除き、あるいは一懺して黄・白等の障を除くことを得。 あるいは一懺してただ白障を除く。これを漸除と名づけ、頓滅と名づけず。 すでにみづから業相のかくのごとくなるを識らば、ただすべからく勤心に懺悔 すべし。日夜三時・六時等にただ憶してすなはち懺することを得るものは、も つともこれ上根上行の人なり。たとへば湯火の身を焼くに、また覚すればす なはち却るがごとし。あにいたづらに時を待ち、処を待ち、縁を待ち、人を待 ちてまさにはじめて除くべけんや。三には衆生をして弥陀の依正二報種々の荘 厳・光明等の相の内外照曜して、この日に超過せること百千万倍なることを識 知せしめんと欲す。行者等、もしかの境の光相を識らずは、すなはちこの日輪 の光明の相を看て、もしは行住坐臥に礼念し憶想して、つねにこの解をなせ。 久しからざるあひだにすなはち定心を得て、かの浄土の事、快楽の荘厳を見ん。 この義のためのゆゑに、世尊先づ教へて日想観をなさしめたまふ。  三に「当起想念」より下「状如懸鼓」に至るこのかたは、まさしく教へて観 P--400 察せしむ。これ身の威儀を正し、面を西方に向かへて、境を守りて心を住め、 堅執して移らざれば、所期みな応ずることを明かす。四に「既見日已」より 下「明了」に至るこのかたは、観成の相を弁ず。これ心を標して日を見るに、 想を制し縁を除きて念々に移らざれば、浄相了然として現ずることを明かす。 また行者はじめて定中にありて、この日を見る時すなはち三昧定楽を得て、 身心内外融液して不可思議なり。これを見る時に当りて、よくすべからく心を 摂して、定をして上心の貪取を得ざらしむべし。もし貪心を起せば、心水すな はち動ず。心動ずるをもつてのゆゑに浄境すなはち失す。あるいは動、ある いは闇、あるいは黒、あるいは青・黄・赤・白等の色にして安定することを得 ず。この事を見る時すなはちみづから念言せよ。「これらの境相揺動して安か らざることは、わが貪心の動念によりて、浄境をして動滅せしむることを致 す」と。すなはちみづから安心正念にして、還りてもとより起せば、動相すな はち除こりて、静心還りて現ず。すでにこの過を知らば、さらに増上の貪心を 起すことを得ざれ。以下の諸観の邪正得失、もつぱらこれに同じ。日を観じて 日を見るは、心境相応す。名づけて正観となす。日を観ずるに日を見ずしてす P--401 なはち余の雑境等を見るは、心境相応せず。ゆゑに邪と名づく。これすなはち 娑婆の闇宅には、事に触れてもつて比方すべきことなし。ただ朗日の輝を舒ぶ るのみありて、想を寄せて遠く極楽を標す。五に「是為」より以下は総じて結 す。上来五句の不同ありといへども、広く日観を明かしをはりぬ。 【3】 二に水観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すなは ちその六あり。一に「次作水想」より下「内外映徹」に至るこのかたは、総じ て地の体を標す。  問ひていはく、前に教へて日を観ぜしむるは、業相等を知らしめんがためな り。ゆゑに日を観ぜしむ。いまこの観のなかに、また教へて水を観ぜしむるは、 なんの所以かある。答へていはく、日輪つねに照らし、もつて極楽の長暉を表 す。またかの地、平らかならずして、この穢国の高下に類することを恐る。た だおもんみれば娑婆の闇宅には、ただ日のみよくあきらかなり。この界には丘 坑ありていまだ高下なき処あらず。よく平らかなるものを取らんと欲するに、 水に過ぎたるはなし。この可平の相を示して、かの瑠璃の地に況す。  また問ひていはく、この界の水は湿ひてかつ軟らかなり。いぶかし、かの地 P--402 またこの水に同ずるや。答へていはく、この界の平水、もつてかの地の等しく して高下なきに対す。また水を転じて氷となすは、かの瑠璃の地の内外映徹せ るに対す。これ弥陀曠劫に等しく行じて、偏なく、正習ともに亡じて、よく 地輪の映徹せるを感ずることを明かす。  また問ひていはく、すでに教へて水を想ひてもつて心を住めしめ、水を転じ てもつて氷となし、氷を転じてもつて瑠璃地となすといはば、いかんが作法し て境をして現ぜしむる。答へていはく、住身の威儀のごときは、もつぱら前の 日観のなかの法に同じ。また水を観じてもつて定心を取らんと欲せば、還りて すべからく相似の境に対して観ずべし。すなはち定を得べきこと易し。行者等 静処において一椀に水を取りて、床の前の地の上に着きてよくこれに満たし盛 り、自身は床の上にありて坐し、自の眉間に当て、一の白き物の豆ばかりの大 きさのごとくなるを着けて、頭を低れ面を水の上に臨めて、一心にこの白き処 を照らし看て、さらに異縁することなかれ。また水初め地にありて波浪住まら ざるとき、面を臨めてこれを観ずるに、面像を見ず。観をなすこと休まざれば、 漸々に面現ず。初めの時面相住まらずして、たちまちに長く、たちまちに短く、 P--403 たちまちに寛く、たちまちに狭く、たちまちに見え、見えず。この相現ずる時、 さらにすべからく極細に用心すべし。久しからざるあひだに水波微細にして、 動ずるに似て動ぜず、面相やうやくあきらかに現ずることを得。面上の眼・ 耳・鼻・口等を見るといへども、またいまだ取るを須ゐず、また妨ぐるを須ゐ ず。ただ身心をほしいままにして、ありと知りて取ることなかれ。ただ白き処 を取りて了々にこれを観じて、正念に守護して、失意異縁せしむることなかれ。 これを見る時に当りて、心やうやく住まることを得て、水性湛然なり。また行 者等自心のなかの水の波浪住まらざることを識知せんと欲せば、ただこの水の 動不動の相を観じて、すなはち自心の境の現不現・明闇の相を知れ。また水の 静かなる時を待ち、一の米ばかりなるを取りて、水上に当てて手に信せてこれ を水のなかに投ぐれば、その水波すなはち動じて椀のうちに遍す。自の面上に 臨めてこれを観るに、その白きものすなはち動ず。さらに豆ばかりなるを着け てこれを水に投ぐるに、波さらに大にして、面上の白きもの、あるいは見え、 見えず。乃至棗等、これを水に投ぐるに、その波うたた大にして、面上の白き ものおよび自身の頭面、総じてみな隠没して現ぜず。水の動ずるによるがゆゑ P--404 なり。「椀」といふはすなはち身器に喩ふ。「水」といふはすなはち自の心水 に喩ふ。「波浪」といふはすなはち乱想の煩悩に喩ふ。「漸々に波浪息む」と いふは、すなはちこれ衆縁を制捨して、心を一境に住むるなり。「水静かにし て境現ず」といふは、すなはちこれ能縁の心乱るることなければ、所縁の境動 ぜず、内外恬怕にして所求の相顕然なり。また細想および粗想あれば、心水す なはち動ず。心水すでに動ずれば、静境すなはち失す。また細塵および粗塵、 これを寂静の水のなかに投ぐるに、その水の波浪すなはち動ず。また行者等 ただこの水の動不動の相を看て、すなはち自心の住不住を識れ。また境現の失 不失・邪正等、もつぱら前の日観に同じ。  また天親の讃(浄土論)にいはく、   「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。   究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」と。 これすなはち総じてかの国の地の分量を明かす。二に「下有金剛七宝」より下 「不可具見」に至るこのかたは、まさしく地下の荘厳を明かす。すなはちその 七あり。一には幢の体等しくこれ無漏の金剛なることを明かす。二には地を&M012808; P--405 げてあひ顕映せる荘厳を明かす。三には方楞具足して円相にあらざることを表 すことを明かす。四には百宝合成して、量塵沙に出でたることを明かす。五 には宝千光を出して、光無辺の際にあまねきことを明かす。六には光に異色多 くして色他方を照らし、機に随ひて変現し、時として益せざることなきことを 明かす。七には衆光彩を散じて日輪を映絶し、新往のものこれを覩てにはかに 周悉しがたきことを明かす。『讃』にいはく(礼讃)、   「地下の荘厳七宝の幢、無量無辺無数億なり。   八方八面百宝をもつて成ず。かれを見れば無生自然に悟る。   無生の宝国永く常たり。一々の宝無数の光を流す。   行者心を傾けてつねに目に対して、神を騰げ踊躍して西方に入れ」と。 また讃にいはく、   「西方は寂静無為の楽なり。畢竟逍遙して有無を離れたり。   大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。身を分ちて物を利すること等しくして殊な   ることなし。   あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。 P--406   変現の荘厳意に随ひて出づ。群生見るもの罪みな除こる」と。 また讃にいはく、   「帰去来、魔郷には停まるべからず。   曠劫よりこのかた流転して、六道ことごとくみな経たり。   到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。   この生平を畢へて後、かの涅槃の城に入らん」と。 三に「瑠璃地上」より下「分斉分明」に至るこのかたは、まさしく地上の荘厳 顕標殊勝なることを明かす。これ依持円浄を明かす。七宝の池林等はこれ能 依、瑠璃の宝地はこれ所依なり。地はこれ能持、池・台・樹等はこれ所持なり。 これ弥陀の因行周備せるによりて、感報をして円明ならしむることを致す。 明浄の義はすなはち無漏を体となす。讃にいはく、   「宝地の荘厳比量なし。処々の光明十方を照らす。   宝閣・華台みな遍満す。雑色玲瓏として量るべきこと難し。   宝雲・宝蓋、空に臨みて覆ひ、聖衆飛通してたがひに往来す。   宝幢・幡蓋、風に随ひて転じ、宝楽輝を含みて念に応じて回る。 P--407   惑疑を帯して生ずるもの、華いまだ発けず。合掌籠々たること胎に処す   るに喩ふ。   うちに法楽を受けて微苦なし。障尽きて須臾に華おのづから開く。   耳目精明にして身金色なり。菩薩徐々として宝衣を授く。   光体に触るるに三忍を成ずることを得。すなはち仏を見たてまつらんと欲   して金台より下る。   法侶迎へ将て大会に入る。尊顔を瞻仰して善哉と讃ず」と。 「金縄」といふ以下は、まさしく黄金を道となし、状金縄に似たることを明 かす。あるいは雑宝をもつて地となし、瑠璃を道となせり。あるいは瑠璃をも つて地となし、白玉を道となせり。あるいは紫金・白銀をもつて地となし、 百宝を道となせり。あるいは不可説の宝をもつて地となし、また不可説の宝を もつて道となせり。あるいは千万宝をもつて地となし、二・三宝を道となせり。 かくのごとくうたたあひ間雑し、うたたともに合成し、うたたあひ照曜し、う たたあひ顕発して、光々色々おのおの不同にして、雑乱することなし。行者等 ただ金道のみありて、余宝を道となすことなしといふことなかれ。四に「一一 P--408 宝中有五百色光」より下「楽器以為荘厳」に至るこのかたは、まさしく空裏の 荘厳を明かす。すなはちその六あり。一には宝多光を出すことを明かす。二に は喩へをもつてその相を顕すことを明かす。三には光変じて台となることを明 かす。四には光変じて楼閣となることを明かす。五には光変じて華幢となるこ とを明かす。六には光変じて宝楽の音となることを明かす。また地上の雑宝、 一々におのおの五百色の光を出す。一々の色光上空中に湧きて一の光台となる。 一々の台のなかに宝楼千万なり。おのおの一・二・三・四、乃至不可説の宝を もつて、もつて荘厳合成をなすことを明かす。「如華又如星月」といふは、仏 慈悲をもつて人の識らざることを畏れたまふがゆゑに、喩へを借りてもつてこ れを顕す。「於台両辺各有百億華幢」といふは、宝地衆多にして光明無量なり。 一々の光等しく化して光台となりて、空中に遍満す。行者等行住坐臥につ ねにこの想をなせ。五に「八種清風」より下「無我之音」に至るこのかたは、 まさしく光、楽音と変じ、転じて説法の相を成ずといふことを明かす。すなは ちその三あり。一には八風光より出づることを明かす。二には風光すなはち出 でて、すなはち楽を鼓ち音を発すことを明かす。三には四倒・四真、恒沙等の P--409 法を顕説することを明かす。讃(浄土論・意)にいはく、   「安楽国は清浄にして、つねに無垢の輪を転ず。   一念および一時に、もろもろの群生を利益す。   仏のもろもろの功徳を讃ずるに、分別の心あることなし。   よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」と。 六に「是為」より下は総じて結す。上来六句の不同ありといへども、広く水観 を明かしをはりぬ。 【4】 三に地想観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すな はちその六あり。一に「此想成時」よりは、まさしく前を結し後を生ずること を明かす。二に「一一観之」より下「不可具説」に至るこのかたは、まさしく 観成の相を弁ずることを明かす。すなはちその六あり。一には心に一境を標し て、総雑してこれを観ずることを得ざれといふことを明かす。二にはすでに一 境をもつぱらにすれば、境すなはち現前す。すでに現前することを得れば、か ならず明了ならしむることを明かす。三には境すでに心に現ずれば、目を閉 ぢ目を開くに守りて失することなからしむることを明かす。四には身の四威儀 P--410 に昼夜つねに念じて、ただ睡時を除きて憶持して捨てざることを明かす。五に は心を凝らすこと絶えざれば、すなはち浄土の相を見ることを明かす。これを 想心中の見と名づく、なほ覚想あるがゆゑなり。六には想心やうやく微にして 覚念たちまちに除こり、正受相応して三昧を証し、真にかの境の微妙の事を見 る、なにによりてかつぶさに説かんやといふことを明かす。これすなはち地広 くして無辺なり。宝幢一にあらず。衆珍彩を曜かして、転変いよいよ多し。こ こをもつて〔仏は〕物を勧めて心を傾け、つねに目に対するがごとくならしむ。 三に「是為」より下は総じて結す。四に「仏告阿難」より下「説是観地法」に 至るこのかたは、まさしく流通を勧発して、縁に随ひて広く説かしむることを 明かす。すなはちその四あり。一には告命を明かす。二には仏語を勧持して、 広く未来の大衆のために前の観地の益を説かしむることを明かす。三には機の 受くるに堪へ信ずるに堪へたるを簡び、この娑婆生死の身の八苦・五苦・三悪 道の苦等を捨つることを得んと欲して、聞きてすなはち信行するものには、身 命を惜しまず、急にためにこれを説けといふことを明かす。もし一人も苦を捨 てて生死を出づることを得れば、これを真に仏恩を報ずと名づく。なにをもつ P--411 てのゆゑに。諸仏世に出でて種々の方便をもつて衆生を勧化したまふは、ただ 悪を制し福を修して、人天の楽を受けしめんと欲するにはあらざればなり。人 天の楽はなほ電光のごとし。須臾にすなはち捨てて、還りて三悪に入りて長時 に苦を受く。この因縁のために、ただ勧めてすなはち浄土に生ずることを求め て無上菩提に向かはしめたまふ。このゆゑにいまの時の有縁、あひ勧めて誓ひ て浄土に生ぜしむるは、すなはち諸仏の本願の意に称ふ。もし信行を楽はざる ものは、『清浄覚経』(平等覚経・四意)にのたまふがごとし。「もし人ありて 浄土の法門を説くを聞きて、聞けども聞かざるがごとく、見れども見ざるがご とくなるは、まさに知るべし、これらははじめて三悪道より来りて、罪障いま だ尽きず。これがために信向することなきのみ。仏のたまはく、〈われ説かく、 この人はいまだ解脱を得べからず〉」と。この『経』(同・四意)にまたのたま はく、「もし人浄土の法門を説くを聞き、聞きてすなはち悲喜交はり流れ、身 の毛為竪つものは、まさに知るべし、この人は過去にすでにかつてこの法を修 習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してか ならず生ずることを得」と。四にはまさしく教へて宝地を観じてもつて心を住 P--412 めしむることを明かす。五に「若観是地者」より下「心得無疑」に至るこのか たは、まさしく観の利益を顕すことを明かす。すなはちその四あり。一には法 を指すことを明かす。ただ宝地を観じて余境を論ぜず。二には無漏の宝地を観 ずるによりて、よく有漏多劫の罪を除くことを明かす。三には捨身以後かなら ず浄土に生ずることを明かす。四には因を修すること正念にして、疑を雑ふる ことを得ざれといふことを明かす。往生を得といへども、華に含まれていまだ 出でず。あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕す。あるいは大悲菩薩(観音) の開華三昧に入りたまふによりて疑障すなはち除こり、宮華開発し身相顕然な り。法侶携へ将て仏会に遊ばしむ。これすなはち心を注めて宝地を見るに、す なはち宿障の罪&M079110;を滅す。願行の業すでに円かにして、命尽きて往かざるこ とを疑ふことなし。いますでにこの勝益を覩る、さらに勧めて邪正を弁知せし む。六に「作是観」より以下は、まさしく観の邪正を弁ずることを明かす。邪 正の義は前の日観のなかにすでに説けり。上来六句の不同ありといへども、広 く地観を明かしをはりぬ。 【5】 四に宝樹観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すな P--413 はちその十あり。一に「仏告阿難」より下「次観宝樹」に至るこのかたは、ま さしく告命して総じて観の名を挙げて、前を結して後を生ずることを明かす。 二に「観宝樹」といふは、かさねて観の名を牒す。「一一観之」といふ以下は、 後の観の相を生じてまさしく儀則を教ふ。これ弥陀の浄国広闊にして無辺なる ことを明かす。宝樹・宝林、あに七行をもつて量となさんや。いま「七重」と いふは、あるいは一樹あり、黄金を根となし、紫金を茎となし、白銀を枝とな し、碼碯を条となし、珊瑚を葉となし、白玉を華となし、真珠を菓となす。 かくのごとき七重たがひに根・茎、乃至華・菓等をなせば、七々四十九重なり。 あるいは一宝を一樹となすもの、あるいは二・三・四、乃至百千万億不可説の 宝を一樹となすものあり。この義、『弥陀経義』のなかにすでに広く論じをは りぬ。ゆゑに七重と名づく。「行」といふは、かの国の林樹多しといへども、 行々整直にして雑乱なし。「想」といふは、いまだ真観を閑ひて自在に心に随 はざれば、かならず仮想によりてもつて心を住めて、まさによく益を証す。三 に「一一」より下「由旬」に至るこのかたは、まさしく樹の体と量とを明かす。 これもろもろの宝林樹、みな弥陀無漏の心中より流出することを明かす。仏心 P--414 これ無漏なるによるがゆゑに、その樹またこれ無漏なり。讃(浄土論)にいはく、   「正道の大慈悲、出世の善根より生ず。   浄光明の満足せること、鏡と日月輪とのごとし」と。 「量」といふは、一々の樹の高さ三十二万里なり。また老死のものなく、また 小生のものなく、また初生漸長のものなし。起することすなはち同時にたち まちに起りて、量数等斉なり。なんの意ぞしかるとならば、かの界は位これ無 漏無生の界なり。あに生死漸長の義あらんや。四に「其諸宝樹」より下「以為 映飾」に至るこのかたは、まさしく雑樹・雑厳・雑飾の異相を明かす。すなは ちその四あり。一には林樹の華葉間雑して不同なることを明かす。二には一々 の根・茎・枝・条・菓等みな衆宝を具せることを明かす。三には一々の華葉う たたたがひに不同にして、瑠璃の色のなかより金色の光を出す。かくのごとく うたたあひ間雑することを明かす。四にはさらに一切の雑宝をもつてこれを厳 飾せることを明かす。また讃(浄土論)にいはく、   「もろもろの珍宝の性を備へて、妙荘厳を具足せり。   無垢の光炎熾りにして、明浄にして世間を曜かす」と。 P--415 また讃にいはく、   「弥陀の浄国、宝樹多し。   四面に条を垂れて、天衣挂り繞れり。   宝雲蓋を含み、化鳥声を連ね、   旋転して空に臨み、法音を奏して会に入る。   他方の聖衆、響きを聴きてもつて心を開き、   本国の能人、形を見て悟を取る」と。 五に「妙真珠網」より下「色中上者」に至るこのかたは、まさしく樹上の空 裏の荘厳の相を明かす。すなはちその七あり。一には珠網空に臨みて樹を覆へ ることを明かす。二には網に多重あることを明かす。三には宮殿の多少を明か す。四には一々の宮内にもろもろの童子多きことを明かす。五には童子の身に 珠の瓔珞を服せることを明かす。六には瓔珞の光照の遠近を明かす。七には光 上色に超えたることを明かす。六に「此諸宝林」より下「有七宝菓」に至るこ のかたは、その林樹多しといへども雑乱なく、華実開くる時うちより出でざる ことを明かす。これすなはち法蔵の因深くして、自然にしてあらしむることを P--416 致す。七に「一一樹葉」より下「婉転葉間」に至るこのかたは、まさしく華葉 の色相の不同なることを明かす。すなはちその五あり。一には葉量の大小等し くして差別なきことを明かす。二には葉より光色を出す多少を明かす。三には 疑ひて識らざることを恐れて、喩へを借りてもつて顕すに、天の瓔珞のごとし といふことを明かす。四には葉に妙華ありて、色天金に比し、相火輪に喩ふ ることを明かす。五にはたがひにあひ顕照して、葉のあひだに婉転することを 明かす。八に「湧生諸菓」より下「亦於中現」に至るこのかたは、まさしく菓 に不思議の徳用の相あることを明かす。すなはちその五あり。一には宝菓の生 ずる時、自然に湧出することを明かす。二には喩へを借りてもつて菓の相を標 することを明かす。三には菓に神光ありて、化して幡蓋となることを明かす。 四には宝蓋円明にして、うちに三千の界を現ずるに、依正の二厳種々の相現ず ることを明かす。五には十方の浄土あまねく蓋のなかに現じて、かの国の人天 覩見せざるはなきことを明かす。またこの樹の量いよいよ高く、縦広いよいよ 闊く、華菓衆多にして、神変一にあらず。一の樹すでにしかり。かの国に遍満 せるあらゆる諸樹の菓衆多にして、ことごとくみなかくのごとし、知るべし。 P--417 一切の行者、行住坐臥につねにこの想をなせ。九に「見此樹已」より下「分 明」に至るこのかたは、観成の相を弁ず。すなはちその三あり。一には観成の 相を結することを明かす。二には次第にこれを観じて、雑乱することを得ざれ といふことを明かす。三には一々に心を起して境に住めて、先づ樹根を観じ、 次に茎・枝、乃至華・菓を想ひ、次に網と宮とを想ひ、次に童子と瓔珞とを想 ひ、次に葉の量・華菓の光色を想ひ、次に幡蓋に広く仏事を現ずることを想ひ、 すでによく一々に次第にこれを観ずるものは、明了ならざるはなきことを明 かす。十に「是為」より下は総じて結す。これすなはち宝樹暉を連ぬ、網簾の 空に殿あり。華千色を分ち、菓他方を現ず。上来十句の不同ありといへども、 広く宝樹観を明かしをはりぬ。 【6】 五に宝池観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すな はちその七あり。一に「次当想水」より以下は、総じて観の名を挙ぐ。すなは ちこれ前を牒して後を生ず。これ宝樹精なりといへども、もし池水なくは、 またいまだ好と名づけざることを明かす。一には世界を空しくせざらしめんが ため、二には依報を荘厳せんがためなり。この義のためのゆゑに、この池渠の P--418 観あり。二に「極楽国土」より下「如意珠王生」に至るこのかたは、まさしく 池数を明かし、ならびに出処を弁ず。すなはちその五あり。一には所帰の国を 標指することを明かす。二には池に八数の名あることを明かす。三には一々の 池岸七宝をもつて合成せることを明かす。まさしく宝光映徹し通照するにより て、八徳の水雑宝の色に一同なり。ゆゑに宝水と名づく。四にはこのもろもろ の衆宝体性柔軟なることを明かす。五には八池の水みな如意宝のなかより出 でて、すなはち如意水と名づくることを明かす。この水にすなはち八種の徳あ り。一には清浄潤沢、すなはちこれ色入の摂なり。二には臭からず、すなは ちこれ香入の摂なり。三には軽し。四には冷し。五には軟らかなり、すなはち これ触入の摂なり。六には美し、これ味入の摂なり。七には飲む時調適す。 八には飲みをはりて患ひなし、これ法入の摂なり。この八徳の義はすでに『弥 陀義』のなかにありて広く説きをはりぬ。また讃にいはく、   「極楽荘厳安養国には、八徳の宝池流れて遍満せり。   四岸暉を含みて七宝を間へ、水色分明にして宝光に映ず。   体性柔軟にして堅触なし。菩薩おもむろに行きて宝香を散ず。 P--419   宝香・宝雲、宝蓋となり、宝蓋空に臨みて宝幢を覆ふ。   宝幢の厳儀、宝殿を囲めり。宝殿の宝鈴、珠網に垂る。   宝網の宝楽千重に転じ、機に随ひて宝宮楼を讃歎す。   一々の宮楼に仏会あり。恒沙の聖衆坐して思量す。   願はくはこの有縁つねに憶念して、捨命して同じくかの法堂に生ぜん」と。 三に「分為十四支」より下「以為底沙」に至るこのかたは、まさしく池分れて 溜を異にし、旋還して乱るることなきことを明かす。すなはちその三あり。一 には渠数の多少を明かす。二には一々の渠岸黄金の色をなすことを明かす。三 には渠下の底沙雑宝の色をなすことを明かす。「金剛」といふはすなはちこれ 無漏の体なり。四に「一一水中」より下「尋樹上下」に至るこのかたは、まさ しく水に不思議の用あることを明かす。すなはちその五あり。一には別して渠 の名を指して、かの荘厳の相を顕すことを明かす。二には渠内の宝華の多少を 明かす。三には華量の大小を明かす。四には摩尼の宝水、華のあひだに流注す ることを明かす。五には宝水渠より出でてもろもろの宝樹を尋ねて、上下する に礙なし。ゆゑに如意水と名づくることを明かす。五に「其声微妙」より下 P--420 「諸仏相好者」に至るこのかたは、まさしく水に不可思議の徳あることを明か す。すなはちその二あり。一には宝水華のあひだに流注して、微波あひ触るる にすなはち妙声を出し、声のなかにみな妙法を説くことを明かす。二には宝 水岸に上りて、樹の枝・条・華・葉・菓等を尋ねて、あるいは上り、あるいは 下り、中間にあひ触るるにみな妙声を出し、声のなかにみな妙法を説く。あ るいは衆生の苦事を説きて菩薩の大悲を覚動して、勧めて他を引かしめ、ある いは人天等の法を説き、あるいは二乗等の法を説き、あるいは地前・地上等の 法を説き、あるいは仏地三身等の法を説くことを明かす。六に「如意珠王」よ り下「念仏法僧」に至るこのかたは、まさしく摩尼多く神徳あることを明かす。 すなはちその四あり。一には珠王のうちより金光を出すことを明かす。二には 光化して百宝の鳥となることを明かす。三には鳥声哀雅にして天の楽も、も つて比方することなきことを明かす。四には宝鳥音を連ねて同声に念仏法僧を 讃歎することを明かす。しかるに「仏」はこれ衆生無上の大師なり。邪を除き て正に向かはしむ。「法」はこれ衆生無上の良薬なり。よく煩悩の毒病を断じ て法身清浄ならしむ。「僧」はこれ衆生無上の福田なり。ただ心を傾けて四 P--421 事疲労を憚らざれば、五乗の依果自然に念に応じて所須しかも至る。その宝珠、 前には八味の水を生じ、後には種々の金光を出す。ただ闇を破し昏を除くのみ にあらず、到る処によく仏事を施す。七に「是為」より下は総じて結す。上来 七句の不同ありといへども、広く宝池観を明かしをはりぬ。 【7】 六に宝楼観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すな はちその十一あり。初めに「衆宝国土」といふは、すなはちこれ総じて観の名 を挙げて、前を牒して後を生ず。これ浄土に宝流灌注することありといへども、 もし宝楼・宮閣なくは、またいまだ精となさざることを明かす。これがために 依報の荘厳種々に円備す。二に「一一界上」といふは、まさしく宝楼の住処を 明かす。地界かの国に遍すれば、楼また無窮なり。三に「有五百億」といふは、 まさしくその数を顕す。一界の上すでにしかり。かの国に遍満してまたみなか くのごとし、知るべし。四に「其楼閣中」より下「作天伎楽」に至るこのかた は、まさしく閣内の荘厳を明かす。五に「又有楽器」より下「不鼓自鳴」に至 るこのかたは、まさしく楼外の荘厳を明かす。宝楽空に飛びて、声法響を流す。 昼夜六時に天の宝幢のごとく、思なくして自事を成ず。六に「此衆音中」より P--422 下「念比丘僧」に至るこのかたは、まさしく楽に識なしといへども、すなはち 説法の能あることを明かす。七に「此想成已」より下「宝池」に至るこのかた は、まさしく観成の相を顕すことを明かす。これ心をもつぱらにして境に住め、 宝楼を見んと&M010661;ひて、剋念して移らざれば、上よりの荘厳総じて現ずることを 明かす。八に「是為」より下は総じて結す。九に「若見此者」よりは、前の観 の相を牒して後の利益を生ず。十に「除無量」より下「生彼国」に至るこのか たは、まさしく法によりて観察すれば、障を除くこと多劫なり。身器清浄に して仏の本心に応ひ、捨身して他世にかならず往くこと疑なきことを明かす。 十一に「作是観者」より下「邪観」に至るこのかたは、観の邪正の相を弁ず。 上来十一句の不同ありといへども、広く宝楼観を明かしをはりぬ。 【8】 七に華座観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すな はちその十九あり。一に「仏告阿難」より下「除苦悩法」に至るこのかたは、 まさしく勅聴許説したまふことを明かす。すなはちその三あり。一には二人 に告命することを明かす。二には勅して聴かしめ、これをしてあきらかに受け、 正念に修行せしむることを明かす。三には仏ために華座の観法を説きたまふ。 P--423 ただよく心を住めて縁念すれば、罪苦除こることを得ることを明かす。二に 「汝等憶持」より下「解説」に至るこのかたは、まさしく流通を勧発したまふ ことを明かす。これ観法は深要にして、すみやかに常没を救ふ。衆生、妄愛の 迷心をもつて六道に漂流す。なんぢこの観を持ちて処々に観修し、あまねく知 聞することを得しめ、同じく解脱に昇らしめよといふことを明かす。三に「説 是語時」より下「不得為比」に至るこのかたは、まさしく娑婆の化主(釈尊) は物のためのゆゑに想を西方に住めしめ、安楽の慈尊(阿弥陀仏)は情を知るが ゆゑにすなはち東域(娑婆)に影臨したまふことを明かす。これすなはち二尊 の許応異なることなし。ただ隠顕殊なることあるは、まさしく器朴の類万差な るによりてたがひに郢・匠たらしむることを致す。「説是語時」といふはまさ しく明かす、この意のなかにつきてすなはちその七あり。一には二人に告勧す る時を明かす。二には弥陀声に応じてすなはち現じ、往生を得ることを証した まふことを明かす。三には弥陀空にましまして立したまふは、ただ心を回らし 正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得 ることを明かす。 P--424  問ひていはく、仏徳尊高なり、輒然として軽挙すべからず。すでによく本願 を捨てずして来応せる大悲者なれば、なんがゆゑぞ端坐して機に赴かざるや。 答へていはく、これ如来(阿弥陀仏)別に密意ましますことを明かす。ただおも んみれば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦あひ焼く。ややもすれば違 返を成じ、詐り親しみて笑みを含む。六賊つねに随ひて、三悪の火坑臨々とし て入りなんと欲す。もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、業繋の牢なにによ りてか勉るることを得ん。この義のためのゆゑに、立ちながら撮りてすなはち 行く。端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり。  四には観音・勢至もつて侍者となし、余衆なきことを表することを明かす。 五には三尊身心円浄にして、光明いよいよ盛りなることを明かす。六には仏 身の光明朗らかにして十方を照らす。垢障の凡夫、なんぞよくつぶさに覩んと いふことを明かす。七には仏身無漏なれば、光もまた同じくしかなり。あに有 漏の天金をもつてこれに比方せんといふことを明かす。四に「時韋提希見無 量」より下「作礼」に至るこのかたは、まさしく韋提は実にこれ垢凡の女質な り、いふべきに足らず。ただおもんみれば聖力冥に加して、かの仏現じたまふ P--425 時、稽首することを蒙ることを得ることを明かす。これすなはち序には浄国に 臨みて、喜歎してもつてみづから勝ふることなし。いまはすなはちまさしく弥 陀を覩たてまつりて、さらにますます心開けて忍を悟る。五に「白仏言」より 下「及二菩薩」に至るこのかたは、まさしく夫人仏恩を領荷し、物のために疑 を陳べて後の問を生ずることを明かす。これ夫人の意は、仏(釈尊)いま現に ましませば、尊の加念を蒙りて弥陀を覩たてまつることを得るも、仏滅後の衆 生はいかにしてか見たてまつるべきといふことを明かす。六に「未来衆生」よ り下「及二菩薩」に至るこのかたは、それ夫人物のために請を置けて、おのれ に同じく見しむることを明かす。 【9】 七に「仏告韋提」より下「当起想念」に至るこのかたは、まさしく総告 許説の言を明かす。  問ひていはく、夫人の請を置くるは、おのれに通じて生のためにす。如来の 酬答したまふに及至りては、ただ韋提を指して生に通ぜざるや。答へていはく、 仏身化に臨みて法を説き、もつて機に逗ず。請ぜざるすら、なほみづからあま ねく弘めたまふ。なんぞ別して指して等しく備へざることを論ぜん。ただ文略 P--426 をもつてのゆゑになし。兼ねてこれがためにする心かならずあり。  八に「七宝地上」より下「華想」に至るこのかたは、まさしく観の方便を教 ふることを明かす。  問ひていはく、衆生盲闇にして、想を逐ひて労を増す。目に対して冥きこ と夜遊するがごとし。遠く浄境を標するに、なにによりてか悉すべき。答へ ていはく、もし衆生の惑障動念に望まば、いたづらにみづから疲労せん。仰ぎ て聖力のはるかに加するを憑めば、所観、みな見しむることを致す。いかんが 作法して心を住めて見ることを得しむるや。作法せんと欲せば、もろもろの行 者等先づ仏像の前において心を至して懺悔して、所造の罪を発露し、きはめて 慚愧を生じ、悲泣して涙を流せ。悔過することすでに竟りて、また心口に釈迦 仏・十方恒沙等の仏を請じ、またかの弥陀の本願を念じていへ。「弟子某甲等 生盲にして罪重く、障隔処深し。願はくは仏の慈悲をもつて摂受護念し、 指授し開悟せしめて、所観の境、願はくは成就することを得しめたまへ。いま たちまちに身命を捨て、仰ぎて弥陀に属す。見と不見と、みなこれ仏恩の力な り」と。この語をいひをはりて、さらにまた心を至して懺悔しをはりて、すな P--427 はち静処に向かひて、面を西方に向かへて正坐跏趺すること、もつぱら前の法 に同じ。すでに心を住めをはりなば徐々に心を転じ、かの宝地の雑色分明なる を想へ。はじめて想はんには多境を乱想することを得ざれ、すなはち定を得が たし。ただ方寸・一尺等を観ぜよ。あるいは一日・二日・三日、あるいは四・ 五・六・七日、あるいは一月・一年・二・三年等、日夜を問ふことなく、行住 坐臥に身口意業つねに定と合せよ。ただ万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・ 痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。もしかくのごとくな らざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。たとひ千年の寿を尽せ ども、法眼いまだかつて開けず。もし心に定を得る時は、あるいは先づ明相現 ずることあり、あるいは先づ宝地等の種々に分明なる不思議のものを見るべし。 二種の見あり。一には想見。なほ知覚あるがゆゑに、浄境を見るといへども いまだ多く明了ならず。二にはもし内外の覚滅してすなはち正受三昧に入れ ば、見るところの浄境すなはち想見の比校をなすことを得るにあらず。  九に「令其蓮華」より下「八万四千光」に至るこのかたは、まさしく宝華に 種々の荘厳あることを明かす。すなはちその三あり。一には一々の華葉衆宝の P--428 色を備へたることを明かす。二には一々の葉に衆多の宝脈あることを明かす。 三には一々の脈に衆多の光色あることを明かす。これ行者をして心を住めて一 一にこれを想はしめて、ことごとく心眼をして見ることを得しむ。すでに華葉 を見をはりなば、次に葉のあひだの衆宝を想ひ、次に宝より多光を出すに、光 宝蓋となることを想ひ、次に華台・台上の衆宝および珠網等を想ひ、次に台上 の四柱の宝幢を想ひ、次に幢上の宝幔を想ひ、次に幔上の宝珠光明雑色にして 虚空に遍満して、おのおの異相を現ずることを想へ。かくのごとく次第に一々 に心を住めて捨てざれば、久しからざるあひだにすなはち定心を得。すでに定 心を得れば、かのもろもろの荘厳一切顕現す、知るべし。十に「了了」より 下は観成の相を弁ず。十一に「華葉小者」より下「遍覆地上」に至るこのかた は、まさしく葉々に種々の荘厳あることを明かす。すなはちその六あり。一に は華葉の大小を明かす。二には華葉の多少を明かす。三には葉間の珠映の多少 を明かす。四には珠に千光あることを明かす。五には一々の珠の光変じて宝蓋 となることを明かす。六には宝蓋上虚空を照らし、下宝地を覆ふことを明かす。 十二に「釈迦毘楞伽」より下「以為交飾」に至るこのかたは、まさしく台上の P--429 荘厳の相を明かす。十三に「於其台上」より下「妙宝珠以為映飾」に至るこの かたは、まさしく幢上の荘厳の相を明かす。すなはちその四あり。一には台上 におのづから四幢あることを明かす。二には幢の体量の大小を明かす。三には 幢上におのづから宝幔ありて、状天宮に似たることを明かす。四には幢上に おのづから衆多の宝珠ありて、輝光映飾することを明かす。十四に「一一宝 珠」より下「施作仏事」に至るこのかたは、まさしく珠光に不思議の徳用の相 あることを明かす。すなはちその五あり。一には一々の珠に多光あることを明 かす。二には一々の光おのおの異色をなすことを明かす。三には一々の光色宝 土に遍することを明かす。四には光の至るところの処、おのおの異種の荘厳を なすことを明かす。五にはあるいは金台・珠網・華雲・宝楽となりて十方に遍 満することを明かす。十五に「是為」より下は総じて観の名を結す。十六に 「仏告阿難」より下「比丘願力所成」に至るこのかたは、まさしく華座得成の 所由を明かす。十七に「若欲念彼仏者」より下「自見面像」に至るこのかたは、 まさしくかさねて観の儀を顕すことを明かす。前のごとく次第に心を住めて雑 乱することを得ざれ。十八に「此想成者」より下「生極楽世界」に至るこのか P--430 たは、まさしく観成の相を結することを明かす。すなはち二の益あり。一には 除罪の益を明かす。二には得生の益を明かす。十九に「作是観者」より下「名 為邪観」に至るこのかたは、まさしく観の邪正の相を弁ずることを明かす。こ れすなはち華は宝地により、葉は奇珍を間へ、台は四幢を瑩き、光は仏事を施 す。上来十九句の不同ありといへども、広く華座観を明かしをはりぬ。 【10】 八に像観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すなは ちその十三あり。一に「仏告阿難」より下「次当想仏」に至るこのかたは、ま さしく前を結し、後を生ずることを明かす。「所以者何」といふは、これその 問なり。仏を想ふべき所以はいかんとなり。二に「諸仏如来」より下「心想中」 に至るこのかたは、まさしく諸仏の大慈、〔衆生の〕心に応じてすなはち現じた まふことを明かす。この勝益あるがゆゑに、なんぢを勧めてこれを想はしむ。  問ひていはく、韋提の上の請にはただ弥陀を指す。いぶかし、如来(釈尊) いま総じて諸仏を挙げたまふ、なんの意かあるや。答へていはく、諸仏は三身 同じく証し、悲智の果円かなること等斉にして二なく、端身一坐にして影現す ること無方なり。意、有縁に赴く時、法界に臨むことを顕さんと欲す。 P--431  「法界」といふは三義あり。一には心遍するがゆゑに法界を解す。二には身 遍するがゆゑに法界を解す。三には障礙なきがゆゑに法界を解す。まさしくは 心到るによるがゆゑに、身また随ひて到る。身は心に随ふがゆゑに「是法界 身」といふ。「法界」といふはこれ所化の境、すなはち衆生界なり。「身」と いふはこれ能化の身、すなはち諸仏の身なり。「入衆生心想中」といふは、 すなはち衆生念を起して諸仏を見たてまつらんと願ずるによりて、仏すなはち 無礙智をもつて知り、すなはちよくかの想心のうちに入りて現じたまふ。ただ もろもろの行者、もしは想念のうち、もしは夢定のうちに仏を見たてまつるは、 すなはちこの義を成ずるなり。三に「是故汝等」より下「従心想生」に至る このかたは、まさしく利益を結勧することを明かす。これ心を標して仏を想ふ ことを明かす。ただ仏解をなして頂より足に至るまで心に想ひて捨てず、一々 にこれを観じてしばらくも休息することなかれ。あるいは頂相を想ひ、あるい は眉間の白毫乃至足下千輪の相を想へ。この想をなす時、仏像端厳にして相好 具足し、了然として現じたまふ。すなはち心一々の相を縁ずるによるがゆゑに、 すなはち一々の相現ず。心もし縁ぜずは衆相見るべからず。ただ自心に想作す P--432 れば、すなはち心に応じて現ず。ゆゑに「是心即是三十二相」といふ。「八十 随形好」といふは、仏相すでに現ずれば、衆好みな随ふ。これまさしく如来も ろもろの想者を教へて具足して観ぜしめたまふことを明かす。「是心作仏」と いふは、自の信心によりて相を縁ずるは作のごとし。「是心是仏」といふは、 心よく仏を想へば、想によりて仏身現ず。すなはちこの心仏なり。この心を離 れてほかにさらに異仏なければなり。「諸仏正遍知」といふは、これ諸仏は円 満無障礙智を得て、作意と不作意とつねによくあまねく法界の心を知りたまへ り。ただよく想をなせば、すなはちなんぢが心想に従ひて現じたまふこと、生 ずるがごとしといふことを明かす。あるいは行者ありて、この一門の義をもつ て唯識法身の観となし、あるいは自性清浄仏性の観となすは、その意はな はだ錯れり。絶えて少分もあひ似たることなし。すでに像を想へといひて三十 二相を仮立せるは、真如法界の身ならば、あに相ありて縁ずべく、身ありて取 るべけんや。しかも法身は無色にして眼対を絶す。さらに類として方ぶべきな し。ゆゑに虚空を取りてもつて法身の体に喩ふ。またいまこの観門は等しくた だ方を指し相を立てて、心を住めて境を取らしむ。総じて無相離念を明かさず。 P--433 如来(釈尊)はるかに末代罪濁の凡夫の相を立てて心を住むるすらなほ得るこ とあたはず、いかにいはんや相を離れて事を求むるは、術通なき人の空に居し て舎を立つるがごとしと知りたまへり。 【11】 四に「是故応当」より下「三仏陀」に至るこのかたは、まさしく前のご とき所益、専注すればかならず成ず、展転してあひ教へ、勧めてかの仏を観ぜ しむることを明かす。五に「想彼仏」よりは前を牒して後を生ず。「先当想像」 といふは所観の境を定む。六に「閉目開目」より下「如観掌中」に至るこの かたは、まさしく観成の相を弁ずることを明かす。すなはちその四あり。一に は身の四威儀、眼の開合に一の金像を見ること、目の前に現ずるがごとくに、 つねにこの想をなせといふことを明かす。二にはすでによく像を観ずれば、像 すなはちすべからく坐処あるべし。すなはち前の華座を想ひ、像上にましまし て坐したまふと想へといふことを明かす。三には像の坐せるを想見しをはりて、 心眼すなはち開くることを明かす。四には心眼すでに開けて、すなはち金像お よびかの極楽のもろもろの荘厳の事を見るに、地上・虚空了然として礙なき ことを明かす。また像を観ずる住心の法はもつぱら前の説のごとし。頂より一 P--434 一にこれを想へ。面の眉・毫相・眼・鼻・口・耳・咽・項・肩・臂・手・指を。 また心を抽きて上に向かひて胸・腹・臍・陰・脛・膝・&M037809;・足・十指・千輪等 を想へ。一々にこれを想ひて、上より下に向かふを順観と名づけ、下の千輪よ り上に向かふを逆観と名づく。かくのごとく逆順に心を住むれば、久しから ずしてかならず成ずることを得。また仏身および華座・宝地等もかならずすべ からく上下通観すべし。しかも十三観のなかに、この宝地・宝華・金像等の観 もつとも要なり。もし人を教へんと欲せば、すなはちこの法を教へよ。ただこ の一法成じぬれば、余の観すなはち自然にあきらかなり。七に「見此」より以 下は、上の像身観を結成して、後の二菩薩観を生ず。八に「復当更作一大蓮華」 より下「坐右華座」に至るこのかたは、まさしく上の三身観を成じて後の多身 観を生ずることを明かす。この二菩薩(観音・勢至)を観ぜんと欲するものは、 もつぱら仏を観ずる法のごとくすべし。九に「此想成時」より下「遍満彼国」 に至るこのかたは、まさしく上の多身観を結成して、後の説法の相を生ずるこ とを明かす。これもろもろの行者等、行住坐臥につねにかの国の一切の宝樹、 一切の宝楼、華、池等を縁ずることを明かす。もしは礼念し、もしは観想して、 P--435 つねにこの解をなせ。十に「此想成時」より下「憶持不捨」に至るこのかたは、 まさしく定によりて極楽の荘厳を見ることを得、また一切の荘厳みなよく妙法 を説くを聞くことを明かす。すでにこれを見聞しをはりて、つねに持ちて失す ることなきを定心を守ると名づく。十一に「令与修多羅合」より下「見極楽世 界」に至るこのかたは、観の邪正の相を弁ず。十二に「是為」より下は総じて 結す。十三に「作是観者」より下「得念仏三昧」に至るこのかたは、まさしく 剋念して観を修すれば、現に利益を蒙ることを明かす。これすなはち群生障 重くして、真仏の観階ひがたし。ここをもつて大聖(釈尊)哀れみを垂れて、 しばらく心を形像に注めしめたまふ。上来十三句の不同ありといへども、広く 像観を明かしをはりぬ。 【12】 九に真身観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すな はちその十二あり。一に「仏告阿難」より下「身相光明」に至るこのかたは、 まさしく告命して前の像観を結成して、後の真身の観を生ずることを明かす。 二に「阿難当知」より下「金色」に至るこのかたは、まさしく真仏の身相天金 の色に踰えたることを顕すことを明かす。三に「仏身高六十」より下「由旬」 P--436 に至るこのかたは、まさしく身量の大小を明かす。四に「眉間」より下「菩薩 為侍者」に至るこのかたは、まさしく総じて身相を観ずることを明かす。すな はちその六あり。一には毫相の大小を明かす。二には眼相の大小を明かす。三 には毛孔光の大小を明かす。四には円光の大小を明かす。五には化仏の多少を 明かす。六には侍者の多少を明かす。五に「無量寿仏」より下「摂取不捨」に 至るこのかたは、まさしく身の別相を観ずるに、光有縁を益することを明か す。すなはちその五あり。一には相の多少を明かす。二には好の多少を明かす。 三には光の多少を明かす。四には光照の遠近を明かす。五には光の及ぶところ の処、ひとへに摂益を蒙ることを明かす。  問ひていはく、つぶさに衆行を修して、ただよく回向すればみな往生を得。 なにをもつてか仏光あまねく照らすにただ念仏のもののみを摂する、なんの意 かあるや。答へていはく、これに三義あり。一には親縁を明かす。衆生行を 起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。身につねに仏 を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。心につねに仏を念ずれば、仏すな はちこれを知りたまふ。衆生仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。 P--437 彼此の三業あひ捨離せず。ゆゑに親縁と名づく。二には近縁を明かす。衆生仏 を見たてまつらんと願ずれば、仏すなはち念に応じて現じて目の前にまします。 ゆゑに近縁と名づく。三には増上縁を明かす。衆生称念すれば、すなはち多 劫の罪を除く。命終らんと欲する時、仏、聖衆とみづから来りて迎接したまふ。 諸邪業繋もよく礙ふるものなし。ゆゑに増上縁と名づく。自余の衆行はこれ善 と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比校にあらず。このゆゑ に諸経のなかに処々に広く念仏の功能を讃めたり。『無量寿経』の四十八願の なかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす。 また『弥陀経』のなかのごときは、一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ず ることを得と。また十方恒沙の諸仏の証誠虚しからずと。またこの『経』(観 経)の定散の文のなかに、ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。 この例一にあらず。広く念仏三昧を顕しをはりぬ。 【13】 六に「其光相好」より以下は、少を結して多を顕す。たやすく観ぜんと 欲するものは、周悉することをなしがたし。七に「但当憶想」より以下は、ま さしく荘厳微妙にして凡境に出過せることを明かす。いまだ目の前に証せずと P--438 いへども、ただまさに憶想して心眼をして見たてまつらしむべし。八に「見此 事者」より下「摂諸衆生」に至るこのかたは、まさしく功呈れて失せず、観 の益成ずることを得ることを明かす。すなはちその五あり。一には観によりて 十方の諸仏を見たてまつることを得ることを明かす。二には諸仏を見たてまつ るをもつてのゆゑに、念仏三昧を結成することを明かす。三にはただ一仏を観 じてすなはち一切の仏身を観ずることを明かす。四には仏身を見たてまつるに よるがゆゑに、すなはち仏心を見たてまつることを明かす。五には仏心は慈悲 を体となし、この平等の大慈をもつてあまねく一切を摂したまふことを明かす。 九に「作此観者」より下「得無生忍」に至るこのかたは、まさしく捨身して他 世にかしこに生ずる益を得ることを明かす。十に「是故智者」より下「現前授 記」に至るこのかたは、かさねて修観の利益を結勧することを明かす。すなは ちその五あり。一には能修観の人を簡び出すことを明かす。二には心をもつぱ らにしてあきらかに無量寿仏を観ずることを明かす。三には相好衆多なり。総 雑して観ずることを得ず。ただ白毫の一相を観ずることを明かす。ただ白毫を 見たてまつることを得れば、一切の衆相自然に現ず。四にはすでに弥陀を見た P--439 てまつれば、すなはち十方の仏を見たてまつることを明かす。五にはすでに諸 仏を見たてまつれば、すなはち定中において授記を蒙ることを得ることを明 かす。十一に「是為遍観」より以下は総じて結す。十二に「作此観」より以下 は、まさしく観の邪正の相を弁ずることを明かす。これすなはち真形量遠く して、毫五山のごとし。震響機に随ひ、光有識を沾す。〔釈尊は〕含霊をして 帰命し、注想して遺りなく、仏(阿弥陀仏)の本弘に乗じて斉しくかの国に臨ま しめんと欲す。上来十二句の不同ありといへども、広く真身観を明かしをはり ぬ。 【14】 十に観音観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すな はちその十五あり。一に「仏告阿難」より下「菩薩」に至るこのかたは、まさ しく前の真身観を結成して、後の菩薩観を生ずることを明かす。二に「此菩薩 身長」より下「皆於中現」に至るこのかたは、まさしく総じて身相を標するこ とを明かす。すなはちその六あり。一には身量の大小を明かす。二には身色、 仏と同じからざることを明かす。三には肉髻、仏の螺髻と同じからざることを 明かす。四には円光の大小を明かす。五には化仏の侍者の多少を明かす。六に P--440 は身光にあまねく五道の衆生を現ずることを明かす。三に「頂上毘楞伽」よ り下「二十五由旬」に至るこのかたは、まさしく天冠のうちの化仏の殊異を明 かす。四に「観音」より以下は、まさしく面色と身色と同じからざることを明 かす。五に「眉間」より下「蓮華色」に至るこのかたは、まさしく毫光転変し て十方に遍満し、化侍いよいよ多くしてさらに紅蓮の色に比することを明かす。 すなはちその五あり。一には毫相七宝の色をなすことを明かす。二には毫光の 多少を明かす。三には光に化仏まします多少を明かす。四には侍者の多少を明 かす。五には化侍変現して十方に遍満することを明かす。六に「有八十億光明」 より下「荘厳事」に至るこのかたは、まさしく身に服せる光瓔、衆宝の作にあ らざることを明かす。七に「手掌作五百億」より下「接引衆生」に至るこの かたは、まさしく手に慈悲の用あることを明かす。すなはちその六あり。一に は手掌雑蓮の色をなすことを明かす。二には一々の指の端に八万の印文あるこ とを明かす。三には一々の文に八万余の色あることを明かす。四には一々の色 に八万余の光あることを明かす。五には光体柔軟にして等しく一切を照らすこ とを明かす。六にはこの宝光の手をもつて有縁を接引したまふことを明かす。 P--441 八に「挙足時」より下「莫不弥満」に至るこのかたは、まさしく足に徳用の相 あることを明かす。九に「其余身相」より以下は指して仏〔の相〕に同ず。十 に「唯頂上」より下「不及世尊」に至るこのかたは、まさしく師徒位別にし て、果願いまだ円かならず。二相をして虧けたることあらしむることを致して、 不足の地に居することを表することを明かす。十一に「是為」より下は総じて 結す。十二に「仏告阿難」より下「当作是観」に至るこのかたは、まさしくか さねて前の文を結し、その後の益を生ずることを明かす。十三に「作是観者」 より下「何況諦観」に至るこのかたは、まさしく観の利益を勧むることを明か す。十四に「若有欲観観音」より下「如観掌中」に至るこのかたは、まさし くかさねて観の儀を顕して物を勧め、心を傾けて両益に沾さしむることを明か す。十五に「作是観」より以下は、まさしく観の邪正の相を弁ずることを明か す。これすなはち観音願重くして十方に影現し、宝手輝を停めて機に随ひて引 接したまふ。上来十五句の不同ありといへども、広く観音観を明かしをはりぬ。 【15】 十一に勢至観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。す なはちその十三あり。一に「次観大勢至」より以下は、総じて観の名を挙ぐ。 P--442 二に「此菩薩身量大小」より以下は、次に観の相を弁ず。すなはちその五あ り。一には身量観音に等類することを明かす。二には身色観音に等類すること を明かす。三には面相観音に等類することを明かす。四には身光・相好観音に 等類することを明かす。五には毫相光を舒べて転変すること観音に等類するこ とを明かす。三に「円光面各百二十五由旬」より以下は、まさしく円光等観音 に同じからざる相を明かす。すなはちその四あり。一には円光の大小を明かす。 二には光照の遠近を明かす。三には化仏の多少を明かす。四には化仏の侍者の 多少を明かす。四に「挙身光明」より下「名大勢至」に至るこのかたは、まさ しく身光遠く備へて有縁を照益し、等しく他方に及び、みな紫金の色をなすこ とを明かす。すなはちその八あり。一には身光の総別の不同を明かす。二には 光照の遠近を明かす。三には光の触るるところの処、みな紫金の色をなすこと を明かす。四にはただ勢至と宿業縁あるもののみすなはちこの光を覩触するこ とを得ることを明かす。五にはただ一毛孔の光を見れば、すなはちよく多く諸 仏の浄妙の身光を見ることを明かす。これすなはち少を挙げてもつて多益を 顕して、これを行ずるものをして&M010661;心渇仰して、入観してもつてこれを証せし P--443 めんと欲す。六には光によりてもつて名を立つることを明かす。七には光の 体・用を明かす。すなはち無漏を体となすがゆゑに智慧光と名づく。またよく 十方三悪の苦を除息するを無上力と名づく。すなはち用となす。八には大勢至 と名づくることは、これすなはち徳によりて名を立つることを明かす。五に 「此菩薩天冠」より下「皆於中現」に至るこのかたは、まさしく天冠の荘厳の 相、観音と同じからざることを明かす。すなはちその四あり。一には冠上の宝 華の多少を明かす。二には一々の華上の宝台の多少を明かす。三には一々の台 のなかに十方諸仏の浄土を映現することを明かす。四には他方の土現ずれども、 彼此すべて増減なきことを明かす。六に「頂上肉髻」より下「普現仏事」に 至るこのかたは、まさしく肉髻の宝瓶の相を明かす。七に「余諸身相」より以 下は指して観音に同ず。八に「此菩薩行時」より下「如極楽世界」に至るこの かたは、まさしく行じたまふに観音と同じからざる相を明かす。すなはちその 四あり。一には行の不同の相を明かす。二には震動の遠近の相を明かす。三に は震動するところの処、華現ずること多きことを明かす。四には所現の華高く してかつ顕れ、多くのもろもろの瑩飾もつて極楽の荘厳に類することを明かす。 P--444 九に「此菩薩坐時」より下「度苦衆生」に至るこのかたは、まさしく坐したま ふに観音に同じからざる相を明かす。すなはちその七あり。一には坐する相を 明かす。二には先づ本国を動ずる相を明かす。三には次に他方を動ずる遠近の 相を明かす。四には下上の仏刹を動揺する多少の相を明かす。五には弥陀・観 音等の分身の雲集する相を明かす。六には空に臨みて側塞してみな宝華に坐し たまふことを明かす。七には分身の説法おのおの所宜に応ずることを明かす。  問ひていはく、『弥陀経』にのたまはく、「かの国の衆生衆苦あることなし。 ただもろもろの楽を受く。ゆゑに極楽と名づく」と。なんがゆゑぞ、この『経』 (観経)に分身、法を説きてすなはち苦を度すとのたまへるはなんの意かあるや。 答へていはく、いま苦楽といふは二種あり。一には三界のなかの苦楽、二には 浄土のなかの苦楽なり。三界の苦楽といふは、苦はすなはち三塗・八苦等、楽 はすなはち人天の五欲・放逸・繋縛等の楽なり。これ楽といふといへども、し かもこれ大苦なり。かならずつひに一念真実の楽あることなし。浄土の苦楽と いふは、苦はすなはち地前を地上に望めて苦となし、地上を地前に望めて楽と なす。下智証を上智証に望めて苦となし、上智証を下智証に望めて楽となす。 P--445 この例一を挙ぐるに知るべし。いま「度苦衆生」といふは、ただ下位を進めて 上位に昇らしめ、下証を転じて上証を得しめんがためなり。本の所求に称ふ をすなはち名づけて楽となす。ゆゑに度苦といふ。もししからずは、浄土のな かの一切の聖人はみな無漏をもつて体となし、大悲を用となす。畢竟常住に して分段の生滅を離れたり。さらになんの義につきてか名づけて苦となさんや。  十に「作此観者」より下「十一観」に至るこのかたは、まさしく観の邪正を 弁じ、総じて分斉を結することを明かす。十一に「観此菩薩者」より以下は、 まさしく修観の利益、罪を除くこと多劫なることを明かす。十二に「作此観 者」より下「浄妙国土」に至るこのかたは、まさしく総じて前の文を結し、 かさねて後の益を生ずることを明かす。十三に「此観成」より以下は、まさし く総じて二身を牒して観成の相を弁ずることを明かす。これすなはち勢至、威 高くして、坐したまふに他国を揺がし、よく分身をして雲集して、法を演べて 生を利せしむ。永く胞胎を絶ちてつねに法界に遊ばしむ。上来十三句の不同あ りといへども、広く勢至観を解しをはりぬ。 【16】 十二に普観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すな P--446 はちその六あり。一に「見此事時」より以下は、まさしく前を牒して後を生ず ることを明かす。二に「当起自心」より下「皆演妙法」に至るこのかたは、ま さしく心を凝らし観に入りて、すなはちつねに自往生の想をなすことを明かす。 すなはちその九あり。一には自生の想を明かす。二には西に向かふ想を明かす。 三には華に坐する想を明かす。四には華の合する想を明かす。五には華の開く る想を明かす。六には宝光来りて身を照らす想を明かす。七にはすでに光照を 蒙りて、眼開くる想をなすことを明かす。八には眼目すでに開けて、仏・菩薩 を見たてまつる想をなすことを明かす。九には法を聞く想を明かす。三に「与 十二部経合」より下「不失」に至るこのかたは、まさしく定散に遺るることな く、心を守りてつねに憶することを明かす。一にはすなはち観心明浄なり。 二にはすなはち諸悪生ぜず。内に法楽と相応し、外にすなはち三邪の障なきに よりてなり。四に「見此事」より以下は観成の益を明かす。五に「是為」より 下は総じて結す。六に「無量寿」より下「常来至此行人之所」に至るこのかた は、まさしくかさねて能観の人を挙げて、すなはち弥陀等の三身護念の益を蒙 ることを明かす。これすなはち群生念を注めて西方の依正二厳を見んと願ずれ P--447 ば、了々につねに眼に見るがごとし。上来六句の不同ありといへども、広く 普観を解しをはりぬ。 【17】 十三に雑想観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。す なはちその十一あり。一に「仏告阿難」より以下は、まさしく告命結勧して後 を生ずることを明かす。二に「先当観於一丈六」より以下は、まさしく像を観 じてもつて真を表し、水を想ひてもつて地を表することを明かす。これはこれ 如来もろもろの衆生を教へて境を易へ、心を転じて観に入らしめたまふ。ある いは池水の華の上にましまし、あるいは宝宮・宝閣のうちにましまし、あるい は宝林・宝樹の下にましまし、あるいは宝台・宝殿のなかにましまし、あるい は虚空・宝雲・華蓋のうちにまします。かくのごとき等の処に一々に心を住め てこれを想ひて、みな化仏の想をなさしむ。機・境あひ称ひて成ずることを得 やすからしめんがためのゆゑなり。三に「如先所説」より下「非心力所及」に 至るこのかたは、まさしく境大に心小にしてにはかに成就しがたし。聖意悲傷 して、勧めて小を観ぜしむることを致すことを明かす。四に「然彼如来」より 下「必得成就」に至るこのかたは、まさしく凡心狭小にして、聖量いよいよ P--448 寛く、想を注むるに由なし。成就しがたきことを恐れたまふことを明かす。こ れすなはち小をもつてのゆゑに成じがたきにあらず、大によるがゆゑに現ぜざ るにあらず。ただこれ弥陀の願重くして、想者をしてみな成ぜしむることを致 す。五に「但想仏像」より下「具足身相」に至るこのかたは、まさしく比校し て勝を顕すことを明かす。像を想ふすらなほおのづから福を得ること無量なり、 いかにいはんや真仏を観ずるものの益を得る功さらにはなはだし。六に「阿弥 陀」より下「丈六八尺」に至るこのかたは、まさしくよく所観の仏像を観ずる に、身に大小ありといへども、あきらかにみなこれ真なることを明かす。すな はちその三あり。一には弥陀の身通無礙にして、意に随ひて遍周することを明 かす。「如意」といふは二種あり。一には衆生の意のごとし。かの心念に随ひ てみな応じてこれを度す。二には弥陀の意のごとし。五眼円かに照らし、六通 自在にして、機の度すべきものを観そなはして、一念のうちに前なく後なく、 身心等しく赴き、三輪をもつて開悟せしめて、おのおの益すること同じからず。 二にはあるいは大身を現じ、あるいは小身を現ずることを明かす。三には身量 に大小ありといへども、みな真金の色をなすことを明かす。これすなはちその P--449 邪正を定む。七に「所現之形」より以下は、まさしく身は大小殊なることあり といへども、光相すなはち真と異なることなきことを明かす。八に「観世音菩 薩」より以下は、まさしく指して前の観に同ずることを明かす。仏大なれば侍 者また大なり。仏小なれば侍者また小なり。九に「衆生但観首相」より以下は、 まさしく勧めて二別なることを観ぜしむることを明かす。いかんが二別なる。 観音の頭首の上には一の立ちたまへる化仏ましまし、勢至の頭首の上には一の 宝瓶あり。十に「此二菩薩」より以下は、まさしく弥陀・観音・勢至等宿願の 縁重く、誓同じくして、悪を捨てて等しく菩提に至るまで、影響のごとくあひ 随ひて遊方化益することを明かす。十一に「是為」より下は総じて結す。上来 十一句の不同ありといへども、広く雑想観を解しをはりぬ。  上日観より下雑想観に至るこのかたは、総じて世尊前の韋提の第四の請に、 「教我思惟正受」といへる両句に答へたまふことを明かす。 【18】 総じて讃じていはく、   初めに日観を教へて昏闇を除かしめ、水を想ひて氷となして内心を浄む。   地下の金幢あひ映発し、地上の荘厳億万重なり。 P--450   宝雲・宝蓋空に臨みて転じ、人天の音楽たがひにあひ尋げり。   宝樹瓔を垂れて菓に間雑し、池徳水を流して華のなかに注ぐ。   宝楼・宝閣みなあひ接し、光々あひ照らして等しくして蔭なし。   三華独りはるかに衆座に超え、四幢、縵を承けて網珠羅なれり。   稟識の心迷ひてなほいまだ暁らず、心を住め像を観ずるに、静かにかしこ   に坐したまふ。   一念心開けて真仏を見たてまつる。身光・相好うたたいよいよ多し。   苦を救ひたまふ観音、法界を縁じ、時として変じて娑婆に入らざるはなし。   勢至の威光よく震動し、縁に随ひて照摂して弥陀に会せしむ。   帰去来、極楽は身を安んずるに実にこれ精なり。   正念に西に帰して華含むと想へ。仏の荘厳を見たてまつるに説法の声あり。   また衆生ありて心に惑を帯して、真の上境を縁ずるに成じがたきことを   恐れて、   如来漸観を開かしむることを致す。華池の丈六等の金形、   変現の霊儀大小ありといへども、物の時宜に応じて有情を度す。 P--451   あまねく同生の知識等を勧む。専心に念仏して西に向かひて傾け。 【19】 また前の請のなかにつきて、初め日観より下華座観に至るこのかたは総 じて依報を明かし、二に像観より下雑想観に至るこのかたは総じて正報を明か す。上来依正二報の不同ありといへども、広く定善一門の義を明かしをはりぬ。 観経正宗分定善義 巻第三 P--452 #2散善義    観経正宗分散善義 巻第四                            沙門善導集記 【1】 これより以下は、次に三輩散善一門の義を解す。この義のなかにつきて すなはちその二あり。一には三福を明かしてもつて正因となす。二には九品を 明かしてもつて正行となす。いま三福といふは、第一の福はすなはちこれ世 俗の善根なり。曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・ 仁・義・礼・智・信を行ず。ゆゑに世俗の善と名づく。第二の福はこれを戒善 と名づく。この戒のなかにつきてすなはち人・天・声聞・菩薩等の戒あり。そ のなかにあるいは具受・不具受あり、あるいは具持・不具持あり。ただよく回 向すればことごとく往生を得。第三の福を名づけて行善となす。これはこれ大 乗心を発せる凡夫、みづからよく行を行じ、兼ねて有縁を勧めて悪を捨て心を 持たしめて、回して浄土に生ず。またこの三福のなかにつきて、あるいは一人 ひとへに世福を行じて、回してまた生ずることを得るあり。あるいは一人ひと P--453 へに戒福を行じて、回してまた生ずることを得るあり。あるいは一人ひとへに 行福を行じて、回してまた生ずることを得るあり。あるいは一人上の二福を行 じて、回してまた生ずることを得るあり。あるいは一人下の二福を行じて、回 してまた生ずることを得るあり。あるいは一人つぶさに三福を行じて、回して また生ずることを得るあり。あるいは人等ありて、三福ともに行ぜざるものを すなはち十悪・邪見・闡提の人と名づく。九品といふは、文に至りてまさに弁 ずべし、知るべし。いま略して三福差別の義意を料簡しをはりぬ。 【2】 十四に上輩観の行善の文前につきて、総じて料簡してすなはち十一門と なす。一には総じて告命を明かす。二にはその位を弁定す。三には総じて有縁 の類を挙ぐ。四には三心を弁定してもつて正因となす。五にはまさしく機の堪 と不堪とを簡ぶことを明かす。六にはまさしく受法の不同を明かす。七にはま さしく修業の時節に延促異なることあることを明かす。八には所修の行を回し て、弥陀仏国に生ぜんと願ずることを明かす。九には命終の時に臨みて聖来 りて迎接したまふ不同と、去時の遅疾とを明かす。十にはかしこに到りて華開 くる遅疾の不同を明かす。十一には華開以後の得益に異なることあることを明 P--454 かす。いまこの十一門の義は、九品の文に約対するに、一々の品のなかにつき てみなこの十一あり。すなはち一百番の義となす。またこの十一門の義は、上 輩の文前につきて、総じて料簡するもまた得たり。あるいは中・下輩の文前に つきて、おのおの料簡するもまた得たり。またこの義もし文をもつて来し勘ふ れば、すなはち具・不具あり。隠顕ありといへども、もしその道理によらばこ とごとくみなあるべし。この因縁のためのゆゑに、すべからく広開して顕出す べし。依行するものをして解りやすく識りやすからしめんと欲す。上来十一門 の不同ありといへども、広く上輩三品の義意を料簡しをはりぬ。 【3】 次下に先づ上品上生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、 後に結す。すなはちその十二あり。一に「仏告阿難」より以下はすなはちなら べて二の意を標す。一には告命を明かす。二にはその位を弁定することを明か す。これすなはち大乗を修学する上善の凡夫人なり。三に「若有衆生」より下 「即便往生」に至るこのかたは、まさしく総じて有生の類を挙ぐることを明か す。すなはちその四あり。一には能信の人を明かす。二には往生を求願するこ とを明かす。三には発心の多少を明かす。四には得生の益を明かす。四に「何 P--455 等為三」より下「必生彼国」に至るこのかたは、まさしく三心を弁定してもつ て正因となすことを明かす。すなはちその二あり。一には世尊、機に随ひて益 を顕したまふこと意密にして知りがたし、仏のみづから問ひみづから徴したま ふにあらずは、解を得るに由なきことを明かす。二には如来(釈尊)還りてみ づから前の三心の数を答へたまふことを明かす。 【4】 『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。「至」とは真なり、 「誠」とは実なり。一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実 心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚 仮を懐くことを得ざれ。貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇 蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行 と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・起行をなすものは、 たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごと くするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄 土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。なにをもつてのゆ ゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一 P--456 念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、お ほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。また真実 に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。自利真実といふは、また 二種あり。一には真実心のうちに、自他の諸悪および穢国等を制捨して、行 住坐臥に一切の菩薩の諸悪を制捨したまふに同じく、われもまたかくのごとく ならんと想ふなり。二には真実心のうちに、自他凡聖等の善を勤修す。真実心 のうちの口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃歎す。また真実心のうちの 口業に、三界・六道等の自他の依正二報の苦悪の事を毀厭す。また一切衆生の 三業所為の善を讃歎す。もし善業にあらずは、つつしみてこれを遠ざかれ、ま た随喜せざれ。また真実心のうちの身業に、合掌し礼敬して、四事等をもつて かの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心のうちの身業に、この生死 三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心のうちの意業に、かの阿 弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ずるがごとくす。 また真実心のうちの意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨す。 不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。またもし善の三 P--457 業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。内外明闇を簡ばず、 みなすべからく真実なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。 【5】 「二には深心」と。「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。ま た二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より このかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二には決 定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮 りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。 【6】 また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説 きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。また 決定して深く、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切の凡夫決定して生 ずることを得と証勧したまふと信ず。また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行 者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、仏の捨てしめ たまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らし めたまふ処をばすなはち去る。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、 これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。また一切の行者た P--458 だよくこの『経』(観経)によりて深く信じて行ずるものは、かならず衆生を誤 たず。なにをもつてのゆゑに。仏はこれ大悲を満足したまへる人なるがゆゑな り、実語したまふがゆゑなり。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。その学 地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによりて、果願いまだ円か ならず。これらの凡聖はたとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了するこ とあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請じ て定となすべし。もし仏意に称へばすなはち印可して、「如是如是」とのたま ふ。もし仏意に可はざれば、すなはち「なんぢらが所説この義不如是」とのた まふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同ず。仏の印可したまふは、 すなはち仏の正教に随順す。もし仏のあらゆる言説なれば、すなはちこれ正 教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多、もしは少、すべて菩 薩・人・天等に問ひて、その是非を定めざれ。もし仏の所説なれば、すなはち これ了教なり。菩薩等の説はことごとく不了教と名づく、知るべし。このゆ ゑにいまの時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。ただ深く仏語を信じて専注 奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑礙をなし、惑を抱きて P--459 みづから迷ひ、往生の大益を廃失すべからず。 【7】 また深心は「深き信なり」といふは、決定して自心を建立して、教に順 じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のため に、退失し傾動せられざるなり。  問ひていはく、凡夫は智浅く、惑障処すること深し。もし解行不同の人多く 経論を引きて来りてあひ妨難し、証して「一切の罪障の凡夫往生を得ず」とい ふに逢はば、いかんがかの難を対治して、信心を成就して、決定してただちに 進みて、怯退を生ぜざらんや。答へていはく、もし人ありて多く経論を引きて 証して「生ぜず」といはば、行者すなはち報へていへ。「なんぢ経論をもつて 来し証して〈生ぜず〉といふといへども、わが意のごときは決定してなんぢが 破を受けず。なにをもつてのゆゑに。しかるにわれまた、これかのもろもろの 経論を信ぜざるにはあらず。ことごとくみな仰信す。しかるに仏かの経を説き たまふ時は、処別・時別・対機別・利益別なり。またかの経を説きたまふ時は、 すなはち『観経』・『弥陀経』等を説きたまふ時にあらず。しかるに仏の説教は 機に備ふ、時また不同なり。かれすなはち通じて人・天・菩薩の解行を説く。 P--460 いま『観経』の定散二善を説きたまふことは、ただ韋提および仏滅後の五濁・ 五苦等の一切凡夫のために、証して〈生ずることを得〉とのたまふ。この因縁 のために、われいま一心にこの仏教によりて決定して奉行す。たとひなんぢら 百千万億ありて〈生ぜず〉といふとも、ただわが往生の信心を増長し成就せん」 と。また行者さらに向かひて説きていへ。「なんぢよく聴け、われいまなんぢ がためにさらに決定の信相を説かん。たとひ地前の菩薩・羅漢・辟支等、もし は一、もしは多、乃至、十方に遍満して、みな経論を引きて証して〈生ぜず〉 といふとも、われまたいまだ一念の疑心を起さず。ただわが清浄の信心を増 長し成就せん。なにをもつてのゆゑに。仏語は決定成就の了義にして、一切 のために破壊せられざるによるがゆゑなり」と。また行者よく聴け。たとひ初 地以上十地以来、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、異口同音にみ ないはく、「釈迦仏、弥陀を指讃し、三界・六道を毀呰し、衆生を勧励し、〈専 心に念仏し、および余善を修すれば、この一身を畢へて後必定してかの国に生 ず〉といふは、これかならず虚妄なり、依信すべからず」と。われこれらの所 説を聞くといへども、また一念の疑心を生ぜず。ただわが決定上上の信心を P--461 増長し成就せん。なにをもつてのゆゑに。すなはち仏語は真実決了の義なる によるがゆゑなり。仏はこれ実知・実解・実見・実証にして、これ疑惑心中の 語にあらざるがゆゑなり。また一切の菩薩の異見・異解のために破壊せられず。 もし実にこれ菩薩ならば、すべて仏教に違せじ。またこの事を置く、行者まさ に知るべし。たとひ化仏・報仏、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、 おのおの光を輝かし、舌を吐きてあまねく十方に覆ひて、一々に説きてのたま はく、「釈迦の所説に、あひ讃めて一切の凡夫を勧発して、〈専心に念仏し、お よび余善を修して、回願すればかの浄土に生ずることを得〉といふは、これは これ虚妄なり、さだめてこの事なし」と。われこれらの諸仏の所説を聞くとい へども、畢竟じて、一念疑退の心を起してかの仏国に生ずることを得ざること を畏れず。なにをもつてのゆゑに。一仏は一切仏なり、あらゆる知見・解行・ 証悟・果位・大悲、等同にして少しき差別もなし。このゆゑに一仏の制したま ふところは、すなはち一切仏同じく制したまふ。前仏、殺生・十悪等の罪を制 断したまひ、畢竟じて犯さず行ぜざるをば、すなはち十善・十行にして六度の 義に随順すと名づけたまふがごとき、もし後仏、出世したまふことあらんに、 P--462 あに前の十善を改めて十悪を行ぜしめたまふべけんや。この道理をもつて推験 するに、あきらかに知りぬ、諸仏の言行はあひ違失せざることを。たとひ釈迦 一切の凡夫を指勧して、「この一身を尽すまで専念専修すれば、捨命以後さだ めてかの国に生ず」とのたまはば、すなはち十方の諸仏ことごとくみな同じく 讃め、同じく勧め、同じく証したまはん。なにをもつてのゆゑに。同体の大悲 なるがゆゑなり。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、 すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説きたまふ。釈迦 極楽の種々の荘厳を讃歎し、また「一切の凡夫、一日七日、一心にもつぱら弥 陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得」(意)と勧めたまひ、次下の文に(同・ 意)、「十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時、 悪世界、悪衆生、悪見、悪煩悩、悪邪、無信の盛りなる時において、弥陀の名 号を指讃して、〈衆生称念すればかならず往生を得〉と勧励したまふを讃じ たまふ」とのたまふは、すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一 仏の所説を信ぜざることを恐畏れて、すなはちともに同心同時に、おのおの舌 相を出してあまねく三千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。「なんぢら衆 P--463 生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、 時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に もつぱら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なし」 と。このゆゑに一仏の所説は、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふ。 これを人に就きて信を立つと名づく。 【8】 次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。一には正行、 二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、こ れを正行と名づく。何者かこれなるや。一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀 経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観 察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口に 称するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすな はち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。またこの正のなか につきてまた二種あり。一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐 臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの 仏の願に順ずるがゆゑなり。もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。 P--464 この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。もし前の 正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無 間となす。もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ず ることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。ゆゑに深心と名づく。 【9】 「三には回向発願心」と。「回向発願心」といふは、過去および今生の身 口意業所修の世・出世の善根と、および他の一切凡聖の身口意業所修の世・ 出世の善根を随喜せると、この自他の所修の善根をもつて、ことごとくみな真 実の深信の心中に回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づ く。また回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心 のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし。この心深信せること金剛のごと くなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せら れず。ただこれ決定して一心に捉りて、正直に進み、かの人の語を聞きて、す なはち進退あり、心に怯弱を生ずることを得ざれ。回顧すれば道より落ちて、 すなはち往生の大益を失するなり。 【10】 問ひていはく、もし解行不同の邪雑人等ありて、来りてあひ惑乱し、あ P--465 るいは種々の疑難を説きて、「往生を得ず」といひ、あるいはいはく、「なんぢ ら衆生、曠劫よりこのかたおよび今生の身口意業に、一切凡聖の身の上におい てつぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いま だ除尽することあたはず。しかるにこれらの罪は三界の悪道に繋属す。いかん ぞ一生の修福の念仏をもつてすなはちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の 位を証悟することを得んや」と。答へていはく、諸仏の教行、数塵沙に越え たり。稟識の機縁、情に随ひて一にあらず。たとへば世間の人の眼に見るべく 信ずべきがごときは、明よく闇を破し、空よく有を含み、地よく載養し、水よ く生潤し、火よく成壊するがごときなり。かくのごとき等の事をことごとく待 対の法と名づく。すなはち目に見るべし、千差万別なり。いかにいはんや仏法 不思議の力、あに種々の益なからんや。随ひて一門を出づれば、すなはち一煩 悩の門を出づ。随ひて一門に入れば、すなはち一解脱智慧の門に入る。これが ために縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。なんぢ、なにをもつて かすなはち有縁の要行にあらざるをもつてわれを障惑するや。しかるにわが所 愛は、すなはちこれわが有縁の行なり。すなはちなんぢが所求にあらず。なん P--466 ぢが所愛は、すなはちこれなんぢが有縁の行なり。またわが所求にあらず。こ のゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修すれば、かならず疾く解脱を得。行 者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、すなはち仏果 に至るまで、一切礙なくみな学することを得ん。もし行を学せんと欲せば、か ならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに多く益を得ればなり。 【11】 また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説 きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何者かこれなるや。た とへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。忽然とし て中路に二の河あるを見る。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、 北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。南北辺なし。ま さしく水火の中間に一の白道あり。闊さ四五寸ばかりなるべし。この道東の岸 より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、そ の火炎また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。 この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣 ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。この人死を怖れ P--467 てただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづか ら念言す。「この河は南北に辺畔を見ず。中間に一の白道を見るも、きはめて これ狭小なり。二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべ き。今日さだめて死すること疑はず。まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・ 悪獣漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競 ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、 またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。時に当りて惶怖することまたい ふべからず。すなはちみづから思念す。「われいま回らばまた死せん。住まら ばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉れずは、われむしろこの 道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度るべし」と。 この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。「なんぢ、ただ決定 してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。もし住まらば、すなはち 死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念に してただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを 畏れざれ」と。この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなは P--468 ちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心 を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、 「なんぢ、回り来れ。この道嶮悪にして過ぐることを得ず。かならず死するこ と疑はず。われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。この人喚ばふ 声を聞くといへどもまた回顧せず。一心にただちに進みて道を念じて行けば、 須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見えて慶 楽すること已むことなし。これはこれ喩へなり。  次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。 「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。「群賊・悪獣詐り親しむ」 といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。「無人空迥 の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。 「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとく なるに喩ふ。「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなか に、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、 すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。ま P--469 た「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を 染汚するに喩ふ。また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よ く功徳の法財を焼くに喩ふ。「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふ は、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。「東の岸 に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、す なはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法あり て尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふ。「あるいは行くこと一 分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄 りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに 喩ふ。「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。 「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく 生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。 仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心 をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、 水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以 P--470 後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんと いふに喩ふ。 【12】 また一切の行者、行住坐臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、 つねにこの解をなしつねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。また 「回向」といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入 して衆生を教化するをまた回向と名づく。 【13】 三心すでに具すれば、行として成ぜざるはなし。願行すでに成じて、も し生ぜずは、この処あることなからん。またこの三心はまた通じて定善の義を 摂す、知るべし。 【14】 五に「復有三種衆生」より以下は、まさしく機のよく法を奉け、教によ りて修行するに堪へたるを簡ぶことを明かす。六に「何等為三」より下「六 念」に至るこのかたは、まさしく受法の不同を明かす。すなはちその三あり。 一には慈心不殺を明かす。しかるに殺業に多種あり。あるいは口殺あり、ある いは身殺あり、あるいは心殺あり。「口殺」といふは、処分許可するを名づけ て口殺となす。「身殺」といふは、身手等を動かし指授するを名づけて身殺と P--471 なす。「心殺」といふは、方便を思念して計校する等を名づけて心殺となす。 もし殺業を論ぜば四生を簡ばず、みなよく罪を招きて浄土に生ずることを障ふ。 ただ一切の生命において慈心を起すは、すなはちこれ一切衆生に寿命安楽を 施す。またこれ最上勝妙の戒なり。これすなはち上の初福(世福)の第三の 句に「慈心不殺」といへるに合す。すなはち止・行の二善あり。みづから殺せ ざるがゆゑに止善と名づく。他を教へて殺せざらしむるがゆゑに行善と名づく。 自他はじめて断ずるを止善と名づけ、畢竟じて永く除くを行善と名づく。止・ 持の二善ありといへども、総じて慈下の行を結成す。「具諸戒行」といふは、 もし人・天・二乗の器に約すればすなはち小戒と名づけ、もし大心大行の人に 約すれば、すなはち菩薩戒と名づく。この戒もし位をもつて約すれば、これ上 輩三位のものに当れり、すなはち菩薩戒と名づく。まさしく人位定まれるによ るがゆゑに自然に転成す。すなはち上の第二福(戒福)の戒分の善根に合す。 二には読誦大乗を明かす。これ衆生の性習不同にして、法を執ることおのお の異なることを明かす。前の第一の人は、ただ慈を修し、戒を持つをもつて能 となす。次に第二の人は、ただ読誦大乗をもつて是となす。しかるに戒はす P--472 なはちよく五乗・三仏の機を持ち、法はすなはち三賢・十地万行の智慧を薫成 す。もし徳用をもつて来し比校せば、おのおの一の能あり。すなはち上の第三 福(行福)の第三の句に「読誦大乗」といへるに合す。三には修行六念を明か す。いはゆる仏・法・僧を念じ、戒・捨・天等を念ず。これまた通じて上の第 三福の大乗の意義に合す。「念仏」といふは、すなはちもつぱら阿弥陀仏の口 業の功徳、身業の功徳、意業の功徳を念ず。一切の諸仏もまたかくのごとし。 また一心にもつぱら諸仏所証の法ならびにもろもろの眷属の菩薩僧を念じ、ま た諸仏の戒を念じ、および過去の諸仏、現在の菩薩等の、なしがたきをよくな し、捨てがたきをよく捨て、内に捨て外に捨て、内外に捨つるを念ず。これら の菩薩ただ法を念ぜんと欲して身財を惜しまず。行者等すでにこの事を念知せ ば、すなはちすべからくつねに仰ぎて前賢・後聖を学し、身命を捨つる意をな すべし。また「念天」とはすなはちこれ最後身十地の菩薩なり。これらは難行 の行すでに過ぎ、三祇の劫すでに超え、万徳の行すでに成じ、灌頂の位すでに 証せり。行者等すでに念知しをはりなば、すなはちみづから思念すべし。わが 身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行 P--473 じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟し て、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日 に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微 微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖す るに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。七に「回向発願」より以下は、 まさしくおのおの前の所修の業を回して、所求の処に向かふことを明かす。八 に「具此功徳」より以下は、まさしく修行の時節の延促を明かす。上一形を尽 し、下一日・一時・一念等に至る。あるいは一念・十念より一時・一日・一形 に至る。大意は、一たび発心して以後、誓ひてこの生を畢るまで退転あること なし。ただ浄土をもつて期となす。また「具此功徳」といふは、あるいは一人 にして上の二を具し、あるいは一人にして下の二を具し、あるいは一人にして 三種ことごとく具す。あるいは人ありて三種分なきを、名づけて人の皮を着た る畜生となす、人と名づくるにあらず。また具三・不具三を問はず、回すれば ことごとく往生を得、知るべし。九に「生彼国時」より下「往生彼国」に至る このかたは、まさしく命終の時に臨みて聖来りて迎接したまふ不同と、去時 P--474 の遅疾とを明かす。すなはちその十一あり。一には所帰の国を標定すること を明かす。二にはかさねてその行を顕して、決定精勤のものを指し出すこと を明かす。またこれ功徳の強弱を校量す。三には弥陀化主の身みづから来赴 したまふことを明かす。四には「観音」より以下は、さらに無数の大衆等みな 弥陀に従ひて行者を来迎することを顕すことを明かす。五には宝宮、衆に随ふ ことを明かす。六にはかさねて観音・勢至ともに金台を執りて、行者の前に至 ることを明かす。七には弥陀光を放ちて行者の身を照らしたまふことを明かす。 八には仏すでに光を舒べて照らし、およびすなはち化仏等と同時に手を接した まふことを明かす。九にはすでに接して台に昇らしめて、観音等同声に行者の 心を讃勧したまふことを明かす。十にはみづから見れば台に乗じ、仏に従ふこ とを明かす。十一にはまさしく去時の遅疾を明かす。十に「生彼国」より以下 は、まさしく金台かしこに到りて、さらに華合の障なきことを明かす。十一に 「見仏色身」より下「陀羅尼門」に至るこのかたは、まさしく金台到りて後の 得益の不同を明かす。すなはちその三あり。一にははじめて妙法を聞きてすな はち無生を悟る。二には須臾に歴事して次第に授記せらる。三には本国・他方 P--475 にしてさらに聞持の二益を証す。十二に「是名」より以下は、総じて結す。上 来十二句の不同ありといへども、広く上品上生の義を解しをはりぬ。 【15】 次に上品中生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結 す。すなはちその八あり。一に「上品中生者」より以下は、総じて位の名を 挙ぐ。すなはちこれ大乗次善の凡夫人なり。二に「不必受持」より下「生彼 国」に至るこのかたは、まさしく第六・第七・第八門のなかの、所修の業を回 して、西方を定め指すことを明かす。すなはちその四あり。一には受法不定に して、あるいは読誦を得、読誦を得ざることを明かす。二にはよく大乗の空の 義を解することを明かす。あるいは諸法は一切みな空にして生死・無為もまた 空なり。凡聖・明闇もまた空なり。世間の六道、出世間の三賢・十聖等、もし その体性に望むれば畢竟じて不二なりと聴聞す。この説を聞くといへども、そ の心坦然として疑滞を生ぜず。三には深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、 これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。もし疑謗 を生ずれば、すなはち福行を成ぜず。世間の果報すらなほ得べからず、いかに いはんや浄土に生ずることを得んや。これすなはち第三福(行福)の第二・第 P--476 三の句に合す。四には前の所業を回して、所帰を標指することを明かす。三に 「行此行者」より下「迎接汝」に至るこのかたは、まさしく弥陀、もろもろの 聖衆と台を持して来応したまふことを明かす。すなはちその五あり。一には行 者の命延久しからざることを明かす。二には弥陀、衆とみづから来りたまふこ とを明かす。三には侍者台を持して行者の前に至ることを明かす。四には仏、 聖衆と同声に讃歎して、〔行者の〕本所修の業を述べたまふことを明かす。五 には仏、行者の疑を懐くことを恐れたまふがゆゑに、「われ来りてなんぢを迎 ふ」とのたまふことを明かす。四に「与千化仏」より下「七宝池中」に至るこ のかたは、まさしく第九門のなかの、衆聖の授手と、去時の遅疾とを明かす。 すなはちその五あり。一には弥陀、千の化仏と同時に授手したまふことを明か す。二には行者すでに授手を蒙りてすなはちみづから身を見れば、すでに身紫 金の台に坐することを明かす。三にはすでにみづから台に坐することを見て、 合掌して仰ぎて弥陀等の衆を讃ずることを明かす。四にはまさしく去時の遅 疾を明かす。五にはかしこに到りて宝池のうちに止住することを明かす。五に 「此紫金台」より以下は、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華開くる P--477 時節の不同を明かす。行強きによるがゆゑに、上上はすなはち金剛台を得。 行劣なるによるがゆゑに、上中はすなはち紫金台を得。〔浄土に〕生じて宝池 にありて宿を経て開くるがごとし。六に「仏及菩薩倶時放光」より下「得不退 転」に至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益の不同を 明かす。すなはちその五あり。一には仏光、身を照らすことを明かす。二には 行者すでに体を照らすことを蒙りて、目すなはち開明なることを明かす。三に は人中にして習へるところ、かしこに到りて衆声の彰すところとなり、またそ の法を聞くことを明かす。四にはすでに眼開けて法を聞くことを得て、すなは ち金台より下り、親しく仏辺に到りて、歌揚して徳を讃ずることを明かす。五 には時を経ること七日にして、すなはち無生を得ることを明かす。「七日」と いふは、おそらくはこの間の七日なり、かの国の七日を指すにあらず。この間 に七日を経るは、かの処にはすなはちこれ一念須臾のあひだなり、知るべし。 七に「応時即能飛至十方」より下「現前授記」に至るこのかたは、まさしく他 方の得益を明かす。すなはちその五あり。一には身十方に至ることを明かす。 二には一々に諸仏を歴供することを明かす。三には多くの三昧を修することを P--478 明かす。四には延時の得忍を明かす。五には一々の仏辺にして現に授記を蒙る ことを明かす。八に「是名」より以下は、総じて結す。上来八句の不同ありと いへども、広く上品中生を解しをはりぬ。 【16】 次に上品下生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその八あり。一に「上品下生者」より以下は、総じて位の名を挙ぐ。 すなはちこれ大乗下善の凡夫人なり。二に「亦信因果」より下「無上道心」に 至るこのかたは、まさしく第六門のなかの、受法の不同を明かす。すなはちそ の三あり。一には所信の因果不定なることを明かす。あるいは信じ信ぜず。ゆ ゑに名づけて「亦」となす。あるいはまた前の〔上品中生の〕深信に同じかる べし。また信ずといへども深からず。善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。もし深く生死の苦を信 ずるものは、罪業畢竟じてかさねて犯さず。もし深く浄土無為の楽を信ずる ものは、善心一たび発りて永く退失することなし。二には信間断すといへども、 一切の大乗において疑謗することを得ざることを明かす。もし疑謗を起さば、 たとひ千仏身を繞りたまふとも、救ふべきに由なし。三には以上の諸善また功 P--479 なきに似たることを明かす。ただ一念を発して苦を厭ひ、諸仏の境界に生じ、 すみやかに菩薩の大悲の願行を満てて、生死に還り入りて、あまねく衆生を度 せんと楽ふ。ゆゑに発菩提心と名づく。この義第三福(行福)のなかにすでに 明かしをはりぬ。三に「以此功徳」より以下は、まさしく第八門のなかの、前 の正行を回して、所求の処に向かふことを明かす。四に「行者命欲終時」 より下「七宝池中」に至るこのかたは、まさしく第九門のなかの、臨終に聖来 りて迎接したまふと、去時の遅疾とを明かす。すなはちその九あり。一には命 延久しからざることを明かす。二には弥陀、もろもろの聖衆と金華を持して来 応したまふことを明かす。三には化仏同時に授手したまふことを明かす。四 には聖衆同声に等しく讃ずることを明かす。五には行者の罪滅するがゆゑに 「清浄」といひ、〔行者の〕本所修を述ぶるがゆゑに「発無上道心」といふこ とを明かす。六には行者霊儀を覩るといへども、疑心ありて往生を得ざるこ とを恐る。このゆゑに聖衆同声に告げて、「われ来りてなんぢを迎ふ」といふ ことを明かす。七にはすでに告げを蒙り、およびすなはち自身を見るに、すで に金華の上に坐して、籠々として合することを明かす。八には仏身の後に随ひ P--480 て、一念にすなはち生ずることを明かす。九にはかしこに到りて宝池のなかに あることを明かす。五に「一日一夜」より以下は、まさしく第十門のなかの、 かしこに到りて華開くる時節の不同を明かす。六に「七日之中」より下「皆演 妙法」に至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益の不同 を明かす。七に「遊歴十方」より下「住歓喜地」に至るこのかたは、まさしく 他方の得益を明かす、また後益と名づく。八に「是名」より以下は、総じて結 す。上来八句の不同ありといへども、広く上品下生を解しをはりぬ。 【17】 『讃』にいはく(礼讃)、   「上輩は上行上根の人なり。浄土に生ずることを求めて貪瞋を断ず。   行の差別につきて三品を分つ。五門相続して三因を助く。   一日七日もつぱら精進して、畢命に台に乗じて六塵を出づ。   慶ばしきかな、逢ひがたくしていま遇ふことを得たり。永く無為法性の身   を証せん」と。 上来三位の不同ありといへども、総じて上輩一門の義を解しをはりぬ。 【18】 十五に中輩観の行善の文前につきて、総じて料簡してすなはち十一門と P--481 なす。一には総じて告命を明かす。二にはまさしくその位を弁定することを明 かす。三にはまさしく総じて有縁の類を挙ぐることを明かす。四にはまさしく 三心を弁定してもつて正因となすことを明かす。五にはまさしく機の堪と不堪 とを簡ぶことを明かす。六にはまさしく受法の不同を明かす。七にはまさしく 修業の時節に延促異なることあることを明かす。八にはまさしく所修の行を回 して、弥陀仏国に生ぜんと願ずることを明かす。九にはまさしく命終の時に 臨みて聖来りて迎接したまふ不同と、去時の遅疾とを明かす。十にはまさしく かしこに到りて華開くる遅疾の不同を明かす。十一にはまさしく華開以後の得 益に異なることあることを明かす。上来十一門の不同ありといへども、広く中 輩三品を料簡しをはりぬ。 【19】 次に中品上生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結 す。すなはちその八あり。一に「仏告阿難」より以下は、総じて告命を明かす。 二に「中品上生者」よりは、まさしくその位を弁定することを明かす。すな はちこれ小乗根性の上善の凡夫人なり。三に「若有衆生」より下「無衆過 患」に至るこのかたは、まさしく第五・第六門のなかの、受法の不同を明かす。 P--482 すなはちその四あり。一には機の堪と不堪とを簡ぶことを明かす。二には小 乗の斎戒等を受持することを明かす。三には小戒の力微にして五逆の罪を消さ ざることを明かす。四には小戒等を持ちて犯すことあることを得ずといへども、 もし余&M079110;あらば、つねにすべからく改悔してかならず清浄ならしむべきこと を明かす。これすなはち上の第二の戒善の福に合す。しかるに修戒の時は、あ るいはこれ終身、あるいは一年・一月・一日・一夜・一時等なり。この時また 不定なり。大意はみな畢命を期となして毀犯することを得ず。四に「以此善根 回向」より以下は、まさしく第八門のなかの、所修の業を回して所求の処に向 かふことを明かす。五に「臨命終時」より下「極楽世界」に至るこのかたは、 まさしく第九門のなかの、終時に聖来りて迎接したまふ不同と、去時の遅疾と を明かす。すなはちその六あり。一には命延久しからざることを明かす。二に は弥陀、比丘衆と来りて、菩薩あることなきことを明かす。これ小乗の根性 なるによりて、また小根の衆を感ぜり。三には仏、金光を放ちて行者の身を照 らしたまふことを明かす。四には仏、ために法を説き、また出家は多衆の苦、 種々の俗縁・家業・王官・長征・遠防等を離るることを讃ずることを明かす。 P--483 「なんぢいま出家して四輩に仰がれ、万事憂へず。迥然として自在にして、去 住障なし。これがために道業を修することを得」と。このゆゑに讃じて「衆 苦を離る」とのたまふ。五には行者すでに見聞しをはりて欣喜に勝へず。すな はちみづから身を見ればすでに華台に坐し、頭を低れて仏を礼することを明か す。六には行者頭を低るることここにありて、頭を挙げをはればかの国にあ ることを明かす。六に「蓮華尋開」よりは、まさしく第十門のなかの、かしこ に到りて華開くる遅疾の不同を明かす。七に「当華敷時」より下「八解脱」に 至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益の不同を明かす。 すなはちその三あり。一には宝華たちまち発くることを明かす。これ戒行精 強なるによるがゆゑなり。二には法音同じく四諦の徳を讃ずることを明かす。 三にはかしこに到りて四諦を説くを聞きて、すなはち羅漢の果を獲ることを明 かす。「羅漢」といふは、ここには無生といひ、また無着といふ。因亡ずるが ゆゑに無生なり。果喪するがゆゑに無着なり。「三明」といふは、宿命明・ 天眼明・漏尽明なり。「八解脱」といふは、内有色外観色は一の解脱なり。内 無色外観色は二の解脱なり。不浄相は三の解脱なり。四空とおよび滅尽と総じ P--484 て八を成ず。八に「是名」より以下は、総じて結す。上来八句の不同ありとい へども、広く中品上生を解しをはりぬ。 【20】 次に中品中生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結 す。すなはちその七あり。一に「中品中生者」よりは、総じて行の名を挙げ てその位を弁定す。すなはちこれ小乗下善の凡夫人なり。二に「若有衆生」 より下「威儀無欠」に至るこのかたは、まさしく第五・六・七門のなかの、簡 機・時分・受法等の不同を明かす。すなはちその三あり。一には八戒斎を受持 することを明かす。二には沙弥戒を受持することを明かす。三には具足戒を受 持することを明かす。この三品の戒はみな同じく一日一夜なり。清浄にして 犯すことなく、すなはち軽罪に至るまでも、極重の過を犯すがごとくし、三業 の威儀に失あらしめず。これすなはち上の第二の福(戒福)に合す、知るべし。 三に「以此功徳」より以下は、まさしく所修の業を回して、所求の処に向かふ ことを明かす。四に「戒香熏修」より下「七宝池中」に至るこのかたは、まさ しく第九門のなかの、行者の終時に聖来りて迎接したまふと、去時の遅疾とを 明かす。すなはちその八あり。一には命延久しからざることを明かす。二には P--485 弥陀、もろもろの比丘衆と来りたまふことを明かす。三には仏、金光を放ちて 行者の身を照らしたまふことを明かす。四には比丘、華を持して来現すること を明かす。五には行者みづから空声等の讃を見聞することを明かす。六には仏 讃じて、「なんぢ深く仏語を信じ、随順して疑ふことなし。ゆゑに来りてなん ぢを迎ふ」とのたまふことを明かす。七にはすでに仏讃を蒙りてすなはち見る に、みづから華座に坐す。坐しをはれば、華合することを明かす。八には華す でに合しをはりて、すなはち西方宝池のうちに入ることを明かす。五に「経於 七日」より以下は、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華開くる時節の 不同を明かす。六に「華既敷已」より下「成羅漢」に至るこのかたは、まさし く第十一門のなかの、華開以後の得益の不同を明かす。すなはちその四あり。 一には華開けて仏を見たてまつることを明かす。二には合掌して仏を讃ずるこ とを明かす。三には法を聞きて初果を得ることを明かす。四には半劫を経をは りてまさに羅漢となることを明かす。七に「是名」より以下は、総じて結す。 上来七句の不同ありといへども、広く中品中生を解しをはりぬ。 【21】 次に中品下生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 P--486 すなはちその七あり。一に「中品下生」より以下は、まさしく総じて行の名を 挙げて、その位を弁定することを明かす。すなはちこれ世善上福の凡夫人なり。 二に「若有善男子」より下「行世仁慈」に至るこのかたは、まさしく第五・第 六門のなかの、簡機・受法の不同を明かす。すなはちその四あり。一には簡機 を明かす。二には父母に孝養し、六親に奉順することを明かす。すなはち上の 初福(世福)の第一・第二の句に合す。三にはこの人、性調ほり柔善にして自 他を簡ばず、物の苦に遭へるを見て慈敬を起すことを明かす。四にはまさしく この品の人かつて仏法を見聞せず、また&M010661;求することを解らず、ただみづから 孝養を行ずることを明かす、知るべし。三に「此人命欲終時」より下「四十 八願」に至るこのかたは、まさしく第八門のなかの、臨終に仏法に遇逢ふ時節 の分斉を明かす。四に「聞此事已」より下「極楽世界」に至るこのかたは、ま さしく第九門のなかの、得生の益と去時の遅疾とを明かす。五に「生経七日」 よりは、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華の開と不開とを異となす ことを明かす。六に「遇観世音」より下「成羅漢」に至るこのかたは、まさし く第十一門のなかの、華開以後の得益の不同を明かす。すなはちその三あり。 P--487 一には時を経て以後、観音・大勢に遇ひたてまつることを得ることを明かす。 二にはすでに二聖(観音・勢至)に逢ひたてまつりて、妙法を聞くことを得るこ とを明かす。三には一小劫を経て以後、はじめて羅漢を悟ることを明かす。七 に「是名」より以下は、総じて結す。上来七句の不同ありといへども、広く中 品下生を解しをはりぬ。 【22】 『讃』にいはく(礼讃)、   「中輩は中行中根の人なり。一日の斎戒をもつて金蓮に処す。   父母に孝養せるを教へて回向せしめ、ために西方快楽の因と説く。   仏、声聞衆と来り取りて、ただちに弥陀の華座の辺に到る。   百宝の華に籠りて七日を経。三品の蓮開けて小真を証す」と。 上来三位の不同ありといへども、総じて中輩一門の義を解しをはりぬ。 【23】 十六に下輩観の善悪二行の文前につきて、料簡してすなはち十一門とな す。一には総じて告命を明かす。二にはその位を弁定す。三には総じて有縁の 生類を挙ぐ。四には三心を弁定してもつて正因となす。五には機の堪と不堪と を簡ぶ。六には苦楽の二法を受くる不同を明かす。七には修業の時節に延促異 P--488 なることあることを明かす。八には所修の行を回して、所求の処に向かふこと を明かす。九には臨終の時聖来りて迎接したまふ不同と、去時の遅疾とを明か す。十にはかしこに到りて華開くる遅疾の不同を明かす。十一には華開以後の 得益に異なることあることを明かす。上来十一門の不同ありといへども、総じ て下輩の三位を料簡しをはりぬ。 【24】 次に下品上生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結 す。すなはちその九あり。一に「仏告阿難」より以下は、まさしく告命を明か す。二に「下品上生者」よりは、まさしくその位を弁定することを明かす。 すなはちこれ十悪を造る軽罪の凡夫人なり。三に「或有衆生」より下「無有慚 愧」に至るこのかたは、まさしく第五門のなかの、簡機に、一生以来の造悪の 軽重の相を挙出することを明かす。すなはちその五あり。一には総じて造悪 の機を挙ぐることを明かす。二には衆悪を造作することを明かす。三には衆罪 を作るといへども、もろもろの大乗において誹謗を生ぜざることを明かす。四 にはかさねて造悪の人を牒して、智者の類にあらざることを明かす。五にはこ れらの愚人衆罪を造るといへども、総じて愧心を生ぜざることを明かす。四に P--489 「命欲終時」より下「生死之罪」に至るこのかたは、まさしく造悪の人等臨 終に善に遇ひて法を聞くことを明かす。すなはちその六あり。一には命延久し からざることを明かす。二にはたちまちに往生の善知識に遇ふことを明かす。 三には善人、ために衆経を讃ずることを明かす。四にはすでに経を聞く功力、 罪を除くこと千劫なることを明かす。五には智者教を転じて、弥陀の号を称念 せしむることを明かす。六には弥陀の名を称するをもつてのゆゑに、罪を除く こと五百万劫なることを明かす。 【25】 問ひていはく、なんがゆゑぞ、経を聞くこと十二部なるには、ただ罪を 除くこと千劫、仏を称すること一声するには、すなはち罪を除くこと五百万劫 なるは、なんの意ぞや。答へていはく、造罪の人障重くして、加ふるに死苦の 来り逼むるをもつてす。善人多経を説くといへども、餐受の心浮散す。心散ず るによるがゆゑに、罪を除くことやや軽し。また仏名はこれ一なれば、すなは ちよく散を摂してもつて心を住む。また教へて正念に名を称せしむ。心重きに よるがゆゑに、すなはちよく罪を除くこと多劫なり。 【26】 五に「爾時彼仏」より下「生宝池中」に至るこのかたは、まさしく第九 P--490 門のなかの、終時の化衆の来迎と、去時の遅疾とを明かす。すなはちその六あ り。一には行者まさしく名を称する時、かの弥陀すなはち化衆を遣はして声に 応じて来現せしめたまふことを明かす。二には化衆すでに身現じてすなはち同 じく行人を讃じたまふことを明かす。三には所聞の化讃、ただ称仏の功を述べ て、「われ来りてなんぢを迎ふ」とのたまひて聞経の事を論ぜざることを明か す。しかるに仏の願意に望むれば、ただ勧めて正念に名を称せしむ。往生の義、 疾きこと雑散の業に同じからず。この『経』(観経)および諸部のなかのごとき、 処々に広く歎じて、勧めて名を称せしむ。まさに要益となすなり、知るべし。 四にはすでに化衆の告げを蒙り、およびすなはち光明の室に遍するを見ること を明かす。五にはすでに光照を蒙りて、報命すなはち終ることを明かす。六に は華に乗じ、仏に従ひて宝池のなかに生ずることを明かす。六に「経七日」よ り以下は、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華開くる遅疾の不同を明 かす。七に「当華敷時」より下「得入初地」に至るこのかたは、まさしく第十 一門のなかの、華開以後の得益に異なることあることを明かす。すなはちその 五あり。一には観音等先づ神光を放つことを明かす。二には〔観音等の〕身、行 P--491 者の宝華の側に赴くことを明かす。三にはために前生所聞の教を説くことを明 かす。四には行者聞きをはりて領解し発心することを明かす。五には遠く多劫 を経て、百法の位に証臨することを明かす。八に「是名」より以下は、総じて 結す。九に「得聞仏名」より以下は、かさねて行者の益を挙ぐ。ただ念仏のみ 独り往生を得るにあらず。法・僧通念するもまた去くことを得。上来九句の不 同ありといへども、広く下品上生を解しをはりぬ。 【27】 次に下品中生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結 す。すなはちその七あり。一に「仏告阿難」より以下は、総じて告命を明かす。 二に「下品中生者」よりは、まさしくその位を弁定することを明かす。すな はちこれ破戒次罪の凡夫人なり。三に「或有衆生」より下「応堕地獄」に至る このかたは、まさしく第五・第六門のなかの、簡機と造業とを明かす。すなは ちその七あり。一には総じて造悪の機を挙ぐることを明かす。二には多く諸戒 を犯すことを明かす。三には僧物を偸盗することを明かす。四には邪命説法を 明かす。五には総じて愧心なきことを明かす。六には衆罪を兼ね造り、内には 心に悪を発し、外にはすなはち身口に悪をなすことを明かす。すでに自身不善 P--492 なれば、また見るものみな憎む。ゆゑに「もろもろの悪心をもつてみづから荘 厳す」といふ。七にはこの罪状を験むるに、さだめて地獄に入るべきことを明 かす。四に「命欲終時」より下「即得往生」に至るこのかたは、まさしく第 九門のなかの、終時の善悪来迎することを明かす。すなはちその九あり。一に は罪人の命延久しからざることを明かす。二には獄火来現することを明かす。 三にはまさしく火現ずる時、善知識に遇ふことを明かす。四には善人、ために 弥陀の功徳を説くことを明かす。五には罪人すでに弥陀の名号を聞きて、すな はち罪を除くこと多劫なることを明かす。六にはすでに罪滅を蒙りて、火変じ て風となることを明かす。七には天華風に随ひて来応して、目の前に羅列する ことを明かす。八には化衆来迎することを明かす。九には去時の遅疾を明かす。 五に「七宝池中」より下「六劫」に至るこのかたは、まさしく第十門のなかの、 かしこに到りて華開くる時節の不同を明かす。六に「蓮華乃敷」より下「発無 上道心」に至るこのかたは、まさしく第十一門のなかの、華開以後の得益に異 なることあることを明かす。すなはちその三あり。一には華すでに開けをはり て、観音等梵声をもつて安慰することを明かす。二にはために甚深の妙典を P--493 説くことを明かす。三には行者領解し、発心することを明かす。七に「是名」 より以下は、総じて結す。上来七句の不同ありといへども、広く下品中生を 解しをはりぬ。 【28】 次に下品下生の位のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその七あり。一に「仏告阿難」より以下は、総じて告命を明かす。二 に「下品下生者」よりは、まさしくその位を弁定することを明かす。すなはち これつぶさに五逆等を造れる重罪の凡夫人なり。三に「或有衆生」より下「受 苦無窮」に至るこのかたは、まさしく第五・第六門のなかの、簡機と造悪の軽 重の相とを明かす。すなはちその七あり。一には造悪の機を明かす。二には総 じて不善の名を挙ぐることを明かす。三には罪の軽重を簡ぶことを明かす。 四には総じて衆悪を結して、智人の業にあらずといふことを明かす。五には悪 を造ることすでに多ければ、罪また軽きにあらざることを明かす。六には業と してその報を受けざるはあらず、因としてその果を受けざるはあらず。因業す でにこれ楽にあらず、果報いづくんぞよく苦ならざらんといふことを明かす。 七には造悪の因すでに具して、酬報の劫いまだ窮まらざることを明かす。 P--494 【29】 問ひていはく、四十八願のなかの〔第十八願の〕ごときは、ただ五逆と誹 謗正法とを除きて、往生を得しめず。いまこの『観経』の下品下生のなかには、 謗法を簡びて五逆を摂せるは、なんの意かあるや。答へていはく、この義仰ぎ て抑止門のなかにつきて解せん。四十八願のなかの〔第十八願の〕ごとき、謗法 と五逆とを除くことは、しかるにこの二業その障極重なり。衆生もし造れば ただちに阿鼻に入り、歴劫周&M011102;して出づべきに由なし。ただ如来それこの二 の過を造ることを恐れて、方便して止めて「往生を得ず」とのたまへり。また これ摂せざるにはあらず。また下品下生のなかに、五逆を取りて謗法を除くは、 それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂 取して往生せしむ。しかるに謗法の罪はいまだ為らず。また止めて「もし謗法 を起さば、すなはち生ずることを得ず」とのたまふ。これは未造業につきて解 す。もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。かしこに生ずることを 得といへども、華合して多劫を経。これらの罪人華のうちにある時、三種の障 あり。一には仏およびもろもろの聖衆を見ることを得ず。二には正法を聴聞す ることを得ず。三には歴事供養することを得ず。これを除きて以外はさらにも P--495 ろもろの苦なし。経にのたまはく、「なほ比丘の三禅に入れる楽のごとし」と、 知るべし。華のなかにありて多劫開けずといへども、阿鼻地獄のなかにして、 長時永劫にもろもろの苦痛を受くるに勝れざるべけんや。この義抑止門につ きて解しをはりぬ。 【30】 四に「如此愚人」より下「生死之罪」に至るこのかたは、まさしく法を 聞き仏を念じて、現益を蒙ることを得ることを明かす。すなはちその十あり。 一にはかさねて造悪の人を牒することを明かす。二には命延久しからざること を明かす。三には臨終に善知識に遇ふことを明かす。四には善人安慰して教へ て仏を念ぜしむることを明かす。五には罪人死苦来り逼めて、仏名を念ずるこ とを得るに由なきことを明かす。六には善友苦しみて失念すと知りて、教を転 じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす。七には念数の多少、声々間 なきことを明かす。八には罪を除くこと多劫なることを明かす。九には臨終 正念にしてすなはち金華来応することあることを明かす。十には去時の遅疾、 ただちに所帰の国に到ることを明かす。五に「於蓮華中満十二劫」より以下 は、まさしく第十門のなかの、かしこに到りて華開くる遅疾の不同を明かす。 P--496 六に「観音大勢」より下「発菩提心」に至るこのかたは、まさしく第十一門の なかの、華開以後の得益に異なることあることを明かす。すなはちその三あり。 一には二聖(観音・勢至)、ために甚深の妙法を宣べたまふことを明かす。二に は罪を除きて歓喜することを明かす。三には後に勝心を発すことを明かす。七 に「是名」より以下は、総じて結す。上来七句の不同ありといへども、広く下 品下生を解しをはりぬ。 【31】 『讃』にいはく(礼讃)、   「下輩は下行下根の人なり。十悪・五逆等の貪瞋と、   四重と偸僧と謗正法と、いまだかつて慚愧して前の&M079110;を悔いず。   終時に苦相、雲のごとくに集まり、地獄の猛火罪人の前にあり。   たちまちに往生の善知識の、急に勧めてもつぱらかの仏の名を称せしむる   に遇ふ。   化仏・菩薩声を尋ねて到りたまふ。一念心を傾くれば宝蓮に入る。   三華障重くして多劫に開く。時にはじめて菩提の因を発す」と。 上来三位の不同ありといへども、総じて下輩一門の義を解しをはりぬ。 P--497 【32】 前には十三観を明かしてもつて「定善」となす。すなはちこれ韋提の致 請にして、如来(釈尊)すでに答へたまふ。後には三福・九品を明かして、名 づけて「散善」となす。これ仏(釈尊)の自説なり。定散両門ありて異なるこ とありといへども、総じて正宗分を解しをはりぬ。 【33】 三に得益分のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁ず。すなはちその七 あり。初めに「説是語」といふは、まさしく総じて前の文を牒して後の得益の 相を生ずることを明かす。二に「韋提」より以下は、まさしくよく法を聞く人 を明かす。三に「応時即見極楽」より以下は、まさしく夫人等上の光台のなか において極楽の相を見ることを明かす。四に「得見仏身及二菩薩」より以下は、 まさしく夫人第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時、す なはち無生の益を得ることを明かす。五に「侍女」より以下は、まさしくこの 勝相を覩て、おのおの無上の心を発して浄土に生ぜんと求むることを明かす。 六に「世尊悉記」より以下は、まさしく侍女尊記を蒙ることを得て、みなかの 国に生じてすなはち現前三昧を獲ることを明かす。七に「無量諸天」より以下 は、まさしく前の厭苦の縁のなかに、釈・梵・護世の諸天等、仏(釈尊)に従 P--498 ひて王宮にして空に臨みて法を聴くことを明かす。あるいは釈迦毫光の転変を 見、あるいは弥陀金色の霊儀を見、あるいは九品往生の殊異を聞き、あるいは 定散両門ともに摂することを聞き、あるいは善悪の行斉しく帰することを聞 き、あるいは西方浄土、目に対して遠きにあらざることを聞き、あるいは一生 専精に志を決すれば永く生死と流を分つことを聞く。これらの諸天すでに如 来(釈尊)の広く希奇の益を説きたまふを聞きて、おのおの無上の心を発す。 これすなはち仏はこれ聖中の極なり。語を発したまへば経となり、凡惑の類 餐を蒙る。よくこれを聞くものをして益を獲しむ。上来七句の不同ありといへ ども、広く得益分を解しをはりぬ。 【34】 四に次に流通分を明かす。なかに二あり。一には王宮の流通を明かす。 二には耆闍の流通を明かす。いま先づ王宮の流通分のなかにつきてすなはちそ の七あり。一に「爾時阿難」より以下は、まさしく請発の由を明かす。二に 「仏告阿難」より以下は、まさしく如来依正を双べ標し、もつて経の名を立て、 またよく経によりて行を起せば、三障の雲おのづから巻くことを明かして、前 の初めの問の「云何名此経」の一句に答ふ。三に「汝当受持」より以下は、前 P--499 の後の問の「云何受持」の一句に答ふ。四に「行此三昧者」より下「何況憶 念」に至るこのかたは、まさしく比校顕勝して、人を勧めて奉行せしむるこ とを明かす。すなはちその四あり。一には総じて定善を標してもつて三昧の名 を立つることを明かす。二には観によりて修行して、すなはち三身を見る益を 明かす。三にはかさねてよく教を行ずる機を拳ぐることを明かす。四にはま さしく比校顕勝して、ただ三身の号を聞くすらなほ多劫の罪&M079110;を滅す、いか にいはんや正念に帰依して証を獲ざらんやといふことを明かす。五に「若念仏 者」より下「生諸仏家」に至るこのかたは、まさしく念仏三昧の功能超絶して、 実に雑善をもつて比類となすことを得るにあらざることを顕す。すなはちその 五あり。一にはもつぱら弥陀仏の名を念ずることを明かす。二には能念の人を 指讃することを明かす。三にはもしよく相続して念仏するものは、この人はな はだ希有なりとなす、さらに物としてもつてこれに方ぶべきなし。ゆゑに分陀 利を引きて喩へとなすことを明かす。「分陀利」といふは、人中の好華と名づ け、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と 名づく。この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。もし念仏するものは、すな P--500 はちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希 有人なり、人中の最勝人なり。四にはもつぱら弥陀の名を念ずるものは、すな はち観音・勢至つねに随ひて影護したまふこと、また親友知識のごとくなるこ とを明かす。五には今生にすでにこの益を蒙りて、捨命してすなはち諸仏の家 に入ることを明かす。すなはち浄土これなり。かしこに到りて、長時に法を聞 き、歴事供養して、因円かに果満ず。道場の座、あにはるかならんや。六に 「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に 流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の 本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあ り。七に「仏説此語時」より以下は、まさしく能請・能伝等の、いまだ聞かざ るところを聞き、いまだ見ざるところを見、たまたま甘露を餐して、喜躍して もつてみづから勝ふることなきことを明かす。上来七句の不同ありといへども、 広く王宮の流通分を解しをはりぬ。 【35】 五に耆闍会のなかにつきて、またその三あり。一に「爾時世尊」より以 下は、耆闍の序分を明かす。二に「爾時阿難」より以下は、耆闍の正宗分を P--501 明かす。三に「無量諸天」より以下は、耆闍の流通分を明かす。上来三義の不 同ありといへども、総じて耆闍分を明かしをはりぬ。 【36】 初めに「如是我聞」より下「云何見極楽世界」に至るこのかたは、序分 を明かす。二に日観より下下品下生に至るこのかたは、正宗分を明かす。三 に「説是語時」より下「諸天発心」に至るこのかたは、得益分を明かす。四に 「爾時阿難」より下「韋提等歓喜」に至るこのかたは、王宮の流通分を明かす。 五に「爾時世尊」より下「作礼而退」に至るこのかたは、総じて耆闍分を明か す。上来五分の不同ありといへども、総じて『観経』一部の文義を解しをはり ぬ。 【37】 ひそかにおもんみれば、真宗遇ひがたく、浄土の要逢ひがたし。〔釈尊 は〕五趣をして斉しく生ぜしめんと欲す。ここをもつて勧めて後代に聞かしむ。 ただ如来の神力転変無方なり。隠顕機に随ひて王宮にひそかに化す。ここにお いて耆闍の聖衆、小智疑を懐く。仏(釈尊)、後に山(耆闍崛山)に還りたまふ に、委況を&M041467;はず。時に阿難、ために王宮の化、定散両門を宣ぶ。異衆これ によりて同じく聞きて、奉行して頂戴せざるはなし。 P--502 【38】 敬ひて一切有縁の知識等にまうす。余はすでにこれ生死の凡夫なり。智 慧浅短なり。しかるに仏教幽微なれば、あへてたやすく異解を生ぜず。つひ にすなはち心を標し願を結して、霊験を請求す。まさに心を造すべし。尽虚空 遍法界の一切の三宝、釈迦牟尼仏・阿弥陀仏・観音・勢至、かの土のもろもろ の菩薩大海衆および一切の荘厳相等に南無し帰命したてまつる。某、いまこの 『観経』の要義を出して、古今を楷定せんと欲す。もし三世の諸仏・釈迦仏・ 阿弥陀仏等の大悲の願意に称はば、願はくは夢のうちにおいて、上の所願のご とき一切の境界の諸相を見ることを得しめたまへ。仏像の前において願を結し をはりて、日別に『阿弥陀経』を誦すること三遍、阿弥陀仏を念ずること三万 遍、心を至して発願す。すなはち当夜において西方の空中に、上のごとき諸相 の境界ことごとくみな顕現するを見る。雑色の宝山百重千重なり。種々の光 明、下、地を照らすに、地、金色のごとし。なかに諸仏・菩薩ましまして、あ るいは坐し、あるいは立し、あるいは語し、あるいは黙す。あるいは身手を動 じ、あるいは住して動ぜざるものあり。すでにこの相を見て、合掌して立ちて 観ず。やや久しくしてすなはち覚めぬ。覚めをはりて欣喜に勝へず。すなはち P--503 〔この観経の〕義門を条録す。これより以後、毎夜の夢のうちにつねに一の僧あ りて、来りて玄義の科文を指授す。すでに了りて、さらにまた見えず。後の時 に脱本しをはりて、またさらに心を至して七日を要期して、日別に『阿弥陀 経』を誦すること十遍、阿弥陀仏を念ずること三万遍、初夜・後夜にかの仏の 国土の荘厳等の相を観想して、誠心に帰命することもつぱら上の法のごとくす。 当夜にすなはち見らく、三具の磑輪、道の辺に独り転ず。たちまちに一人あり て、白き駱駝に乗りて前に来りて見えて勧む。「師まさにつとめて決定して往 生すべし、退転をなすことなかれ。この界は穢悪にして苦多し。労しく貪楽せ ざれ」と。答へていはく、「大きに賢者の好心の視誨を蒙れり。某、畢命を期 となして、あへて懈慢の心を生ぜず」と。{云々}第二夜に見らく、阿弥陀仏の身 は真金色にして、七宝樹の下、金蓮華の上にましまして坐したまへり。十僧囲 繞して、またおのおの一の宝樹の下に坐せり。仏樹の上にすなはち天衣ありて、 挂り繞れり。面を正しくし西に向かへて、合掌して坐して観ず。第三夜に見ら く、両の幢杆きはめて大きに高く顕れて、幡懸りて五色なり。道路縦横にして、 人観ること礙なし。すでにこの相を得をはりて、すなはち休止して七日に至ら P--504 ず。上来のあらゆる霊相は、本心、物のためにして己身のためにせず。すでに この相を蒙れり。あへて隠蔵せず、つつしみてもつて義の後に申べ呈して、聞 くことを末代に被らしむ。願はくは含霊のこれを聞くものをして信を生ぜしめ、 有識の覩るものをして西に帰せしめん。この功徳をもつて衆生に回施す。こと ごとく菩提心を発して、慈心をもつてあひ向かひ、仏眼をもつてあひ看、菩提 まで眷属として真の善知識となりて、同じく浄国に帰し、ともに仏道を成ぜん。 この義すでに証を請ひて定めをはりぬ。一句一字加減すべからず。写さんと欲 するものは、もつぱら経法のごとくすべし、知るべし。 観経正宗分散善義 巻第四